先週ご紹介した、「写真はわからない/小林 紀晴」の詳細目次を掲載します。
ネット上ですぐに見つかればいいのですけれど。
目次
はじめに
序章 「いい写真」とは
第1章 世界は「撮り尽くされた」か
消費される写真
バブル絶頂期とアジア
「きみにタイはまだ若すぎるよ」
写真というメディア
カメラを替える
象を撮る
「伝来と消滅」
変貌するアジアへ
第2章 カメラとの付き合い方
撮影とは
カメラと撮影者の心理
カメラの大きさ
何を撮るか、何を撮らないか
世界の見方が変わる
気持ちとカメラ
女性を撮る場合
「不自由なカメラ」を選択
男性を撮る場合
カメラは撮れる
カメラが緊張する
第3章 「写真を撮る者」の条件
カメラマン?写真家?フォトグラファー?
写真家志向の強い若者
一人の青年の話
第4章 写真は「窓」か「鏡」か
写真についての問い
「窓」としての写真とは
「鏡」としての写真とは
この写真は「窓」か「鏡」か――ケース①
この写真は「窓」か「鏡」か――ケース②
撮影者の「鏡」が観る側の「鏡」となるとき
第5章 人物をどう撮るか
被写体の存在
別格のポートレート撮影
「セブン・イレブンのコーヒー作戦」
撮影はジャムセッション
俳優・本田博太郎を撮影
サッカー選手・宮本恒靖を撮影
第6章 風景を読む
写真を撮る者とスポーツ選手
「いま、ここ」に対してどう臨むか
女優・鶴田真由を南インドで撮影
「いま、ここ」という瞬間をどう撮るか
「伝来/消滅」――アジアの遺跡群を撮る
どう削るか、どう括るか
「リングワンダリング」(ring wandering)の着想過程
どうしても必要な「言葉」
第7章 過去を撮る
写真で過去が撮れる?
遠い日本の姿を撮る
「思い」をいかに伝えるか
「二万年の水流」
写真で未来を撮る?
古屋誠一『Mémoires(メモワール)』――写真は時間とともに意味を変える
同時多発テロ後に抱いた予感
「撮れないものの存在」について考える
第8章 時代と写真
写真を真似ること
天才型写真家――川内倫子、佐内正史の写真
「ピントを外して撮る」――高木こずえの写真
写真を常に変わり続ける
「写真家」の出現
「不遇の時代」と「写真ブーム」
第9章 写真に答えはない
写真に答えはあるか
学生の反応に言葉が詰まる
賞を受賞した二人の学生の例
乗物好きな学生の作品
原点に戻って考える
写真を通して「何がしたいのか」
終章 写真はなぜ「わからない」のか
写真は数値化できない
審査員が代われば選ぶ写真も変わる
二つの基準
「いい写真」とは
おわりに
少し前の刊行ですが、次の本が刊行されています。
写真はわからない―撮る・読む・伝えるー「体験的」写真論
小林 紀晴
光文社新書
2022/04発売
価格 ¥1,078(本体¥980)
面白そうな写真論の本です。
写真家としての写真論、ということでしょうか?
先にご紹介した港千尋さんの写真論(No.1988)も、そういう性格があったように思います。
タイトルも非常に思わせぶりです。
実物を読んでみたいと思います。
最後に目次だけご紹介します。ただし、詳細なものではありません。
目次
はじめに
序章 「いい写真」とは
第1章 世界は「撮り尽くされた」か
第2章 カメラとの付き合い方
第3章 「写真を撮る者」の条件
第4章 写真は「窓」か「鏡」か
第5章 人物をどう撮るか
第6章 風景を読む
第7章 過去を撮る
第8章 時代と写真
第9章 写真に答えはない
終章 写真はなぜ「わからない」のか
おわりに
新型コロナの感染の波が何度も来ていますが、そのような中で、美術展も事前予約等の入場制限をしたり、他方入場制限をやめたり、入場制限をしていなくても、混んでいる可能性があれば訪問することに心理的抵抗もあり、また美術館というよりもそもそも東京や大阪といった都市圏にしかも鉄道で足を運ぶということへも心理的抵抗があり、結局、なかなか展覧会に行きにくいという状況が継続しています。
そういった状況下、この新型コロナを契機に、または、これを奇禍として、デジタル展覧会(バーチャル展覧会)が開催され、また普及するのではないかと以前から期待しているのですが、そういうことにはなっていません。
なぜ、いつまでたってもデジタル展覧会(バーチャル展覧会)が実現しないのでしょうか?
海外を含む他館から借りている作品をネット上に掲載することはかなり困難で無理だとしても、自館の所蔵品の作品展ならばネット掲載も可能ではないでしょうか? 特に、著作権が消滅している昔の作品であればなおさら。
(とはいえ、所蔵作品をネット上でページを設けて紹介している場合でも、なぜか作品図版を掲載できていない作品(しかも古い作品)も多く見られます。)
著作権の問題なのか、デジタル技術の問題なのか、費用の問題なのか、人手の問題なのか、デジタル展覧会(バーチャル展覧会)が実現されない理由が全く分からないので、いらいらします。
国も手当てをして、早急に1つでも2つでもデジタル展覧会(バーチャル展覧会)を実現させてほしいところです。
デジタル展覧会(バーチャル展覧会)もできないようでは、正直なところ「デジタル化推進」が聞いて呆れます。
ぜひとも、よろしくお願いします。
次の本が最近刊行されました。
アナロジーの奇跡
写真の歴史
カジャ シルヴァーマン∥著 松井 裕美∥訳 礒谷 有亮∥訳
月曜社
2022.6
価格 ¥3,960(本体¥3,600)
大変面白そうな、新しい視点からの写真史。
アナロジーとは、類推・類比・推論。写真が生み出すアナロジーとは何なのか。
中身をじっくりと読んでみたいものです。
なお、訳者のお一人である松井裕美さんは『キュビスム芸術史 - 20世紀西洋美術と新しい〈現実〉』(名古屋大学出版会、2019/02発売)の著者でもあります。
最後に、目次を掲載します。
目次
謝辞
序章
第1章 再臨
第2章 とどまらないデヴェロプメント
第3章 カメラのなかの水
第4章 ある種の共和国
第5章 私 あなた
第6章 死後の現前
訳者解説
アナロジーとしての写真の歴史(礒谷有亮)
『アナロジーの奇跡』を読み解く七つの鍵とシルヴァーマンの思想遍歴(松井裕美)
註
参考文献一覧
索引(事項・人名)
「個人向けデジタル化資料送信サービス」の開始について、No.2006でご紹介しましたが、最近登録が完了しましたので、自分のパソコンで「国立国会図書館デジタルコレクション」を検索したり、閲覧したりしています。
大変便利ではありますが、まだまだ物足りない。ぜひとももっと拡大を続けていただきたい。
方向性は次の3つがあると思います。
1.国立国会図書館の所蔵資料でデジタル化されていないものをデジタル化して「図書館・個人送信」可能とする、または、デジタル化はされているけれども「国立国会図書館内限定」の資料(例えば、なぜか戦前のアサヒカメラなど)を「図書館・個人送信」可能とする。
2,国立国会図書館の所蔵資料ではないもの、例えば、東京国立近代美術館アートライブラリ、東京都写真美術館図書室、JCIIライブラリー、各大学の図書館などに所蔵されている、国立国会図書館所蔵の範囲を超えた資料のデジタル化、「図書館。個人送信」化が必要です(一部は、すでに「他機関デジタル化資料」として収録されているようです)。戦前の資料であれば、すでに国立国会図書館所蔵資料ではデジタル公開をすることが可能になっているのですから、他館所蔵の同時期の資料であれば、ほとんど著作権法上の障害はないのではないかと思います。もし障害があるならば、法改正をして即時にその障害を取り除くべきです。また、それぞれの機関で、国立国会図書館から独立してデジタル化し、データベースを作成する必要は全くなく、むしろ、国立国会図書館のデジタル化の中に含めるべきです。要するに、各種外部機関から資料を国立国会図書館へと持ち込んでデジタル化し、「国立国会図書館デジタルコレクション」に含めてしまうのです。閲覧する側としても、各種の図書館・図書室ごとにデジタル資料のデータベースがあると不便でなりません。「国立国会図書館デジタルコレクション」ですべての資料を調べられる、そういう一元的なデータベースにすることが必須です。そういうことになった場合の便利さ、合理性は、国立国会図書館のデジタル化のご担当者が最もよくお分かりだと思います。
3.これでも足りない、という戦前の資料は、個人を頼るしかありません。例えば、雑誌で不足している号(あるいはもっと広く不足している時期)が必ずあるでしょう。その場合には、その点を関係者や関係機関のみならず、広く一般に告知し、個人から自主的に持ち込んでもらいデジタル化するのです。
さて、これで、戦前の日本の美術雑誌・写真雑誌・グラフ雑誌・建築雑誌・デザイン雑誌などは網羅できるでしょうか? 「国立国会図書館デジタルコレクション」に基づく「個人向けデジタル化資料送信サービス」だけで、すべて検索・閲覧できるようになるでしょうか? いやこれは「質問」するべきことではなく、目指すべことであり、否応なく、実現せねばならぬことです。しかも、かなり早い時期に。
どうぞよろしくお願いします。