次のような展覧会企画をお願いしたいと思います。
『前衛写真とはなにか? 1930年代後半から第二次世界大戦開戦直後までの状況』
「新興写真」が何かということにもまだ十分な決着がついていないと思われるのに、そのあとの時期に来る「前衛写真」にコマを進めるのは難しいかもしれません。
しかし、このようなテーマは何ら目新しいことではなく、因習的といってもいいほどのテーマだと思います。長期にわたって、この問題を放置するわけにもいきません。
戦前当時にも、「浪華写真倶楽部」vs「前衛写真協会」の座談会による議論などがなされているわけですが、その決着はつかぬまま、戦争に入ってしまったというのが実態だと思います。
1930年代後半には、浪華写真倶楽部を中心とした関西の写真界に前衛の大きなうねりがあり、これに呼応するかのように、名古屋(1934年に「なごやふぉとぐるっぺ」結成、1937年に「なごやふぉとぐるっぺ」を「ナゴヤフォトアバンガルド倶楽部」と改称)、福岡(1939年に「ソシエテ・イルフ」結成)でも、前衛の動きが起こっていました。他の地域でも同じような動きがあったのでしょうが、現時点では網羅的な情報は示されておらず、ましてや日本全体の整理や総括は全くなされていません。
また、浪華写真倶楽部に対する瀧口修造による批判は、極めて単純に書けば、フォトモンタージュ、フォトグラム、ソラリゼーションなどの、特徴ある技術を使った作品を「前衛写真」だと考えているようだが、そのような技術(テクニック)先行の考え方(人目を引くようなテクニックを使いさえすれば前衛である)は間違っていて、日常の風景、何気ないモノの中にも前衛があるのだという主張だと思います。たとえば、街角を切り取り続けたアジェの作品なども前衛になりうると。この例などは、アジェご本人がそういうとらえ方をされることをどう考えるかはまったく別として、フランスでのとらえ方(マン・レイなどはアジェの作品をシュルレアリスムととらえた)とも同一です。また、この考えに則れば、単に道端の「石」をストレートに撮った写真でも、前衛といえる作品に仕上がるでしょう。
今ここで、当時の前衛写真の動きを全国的に総括するとともに、このような「前衛写真とはなにか」という議論の決着をつけてしまおう、ということを狙う企画です。
新興写真から前衛写真にかけても、ある意味「牙城」だった雑誌「フォトタイムス」は1940年10月号から「報道写真雑誌」となり前衛性を失いました。また、1941年4月には特高により瀧口が逮捕されるわけですが、このあたりの時期までを広くカバーしていただきたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。