ずいぶん昔に、モランディ(1890-1964)に関するヴィターリ(Vitali)のレゾネなどもご紹介して、モランディの形而上作品をピックアップしたことがありました。
最近、関心が再燃して、特に、なぜ、モランディは形而上作品を制作したのだろうか、また、なぜ、モランディは形而上作品から短期間で離れたのだろうか、という点に関心を持っています。
しかし、日本で公にされているモランディに関する文献をいろいろ見てみても、その点について明快に記載しているものはありません。
例えば、次の本に
モランディとその時代/岡田温司/人文書院/2003年/4800円+税
「第四章 抹殺された過去」という最終章があって、晩年にモランディ本人が、1917年の「自画像」(V.33、いわゆる「形而上的自画像」)を破毀した理由(加えて形而上作品全体を自分から遠ざけた理由)を文献をもとに非常に丁寧にたどっています。これが、当方の知る限り、日本語文献で、当方の問題意識(の2点目)に最も近いところにあるのではないかと思います。誤解を恐れずに、非常に要約して書けば、「モランディ本人が望み、定着させたいと願い。批評家との相互作用によって成立していった自分自身(自分の芸術)のイメージ(伝説・神話、すなわち、50年という長期間にわたって時代(美術、政治、それ以外も)に左右されなかった一貫性、調和性など)と大きく異なるため(若気の至りの一過性のもの)」という理由が示されて終わっています。ある意味で、モランディの意図的な戦略の1つだったということです。ちなみに、この章の最後には、なぜか「接ぎ木」のように、モランディがファシズムに加担していたのではないかという疑念について、否定的な見解を述べています。
ここで注意しなければならないのは、岡田さんが書いておられるのは、晩年になってモランディが考えた(と推測される)こと(戦略)であり、他方、当方が望んでいるのは、1920年代初めに、なぜ、モランディが形而上絵画を離れたのか、ということで、時間的に大きな乖離があり、したがって、その理由も大きく異なる可能性がある、ということです。この著書は、非常に意欲的な作品で、第四章以外は拾い読みしかしていないので、申し訳ないのですが、モランディがいかに自分のイメージ(自分が理想としているイメージ)の維持に労力を掛けていた(命を賭けていた?)かがよくわかります。その流れの中で、晩年に形而上的な自画像を破毀したという事実は理解できるのですが、1920年頃まだ30歳のころに形而上絵画的なスタイルから離れたことの説明には残念ながらなり得ないように思います。
そもそも、「なぜ?」ということは、ご本人しかわからないことでしょう。そして、仮に、生前にモランディにこのことを質問しても、回答は得られなかったと思います。いわば抹殺しようとしていた時代だからです。そして、この状態では、理由を推測するための文献も存在しえないのではないかと思います。
ですが、ここは、当方が素人であるという点を最大限の言い訳として(ただし、完全に赦されることだとも思ってはいません)、資料を根虚とせずに、全面的な推測をしてみたと思います。
まず、形而上絵画に入って行った理由としては…。
1.若かったこともあり(20代)、そもそも前衛的な精神が強く、様々な新しいイズムを取り入れていた(キュビスム、未来派など。カンディンスキーの影響も見られる)。
2.デ・キリコ、カッラとの出会いにより、影響を強く受けた。(もしもローマにいたら、未来派の影響をより強く受けた作品が多く残っていた可能性もある)
3.第一次世界大戦(モランディは出征して、病気で除隊しています)が、モランディの神経に(悪)影響を与えた。
ありふれていますが、こういったところではないでしょうか。
そして、形而上絵画から離れた理由ですが、
1.上記第3点の逆ですが、戦争が終結し、その(悪)影響がおさまった。
2.1920年には30歳になっており、周りからの影響(過去の美術家だけでなく、近くの批評家を含む)を消化し、徐々に自分のスタイルを作るようになっていった。特に、ボローニャにおけるルネサンス=バロックの再発掘の影響を強く受けた。
3.デ・キリコとカッラも形而上絵画から離れており、モランディとしては自分だけが形而上絵画の典型的なスタイルに固執する理由もなかった。
4.そもそも、非常に露骨に形而上絵画的な作品を制作した時代を過ぎたあとの、モランディ作品の特徴となる、瓶、水差し、椀、花瓶、皿、コップなどの要素は、形而上絵画の時代にも一部は見られ、要するに、モランディは形而上絵画の舞台から完全には降りていなかったのではないか。したがって、デ・キリコ、カッラ、モランディの3人の中では、実はモランディが最も形而上絵画的な要素を持ち続けたと言っていいのではないか。形而上絵画の時代にはあった、奇妙さ、派手さ、強い輪郭線などはなくなっているが(とはいえ、1920年代の作品の中には強い輪郭線などが残る作品もある)、それはある意味、モランディなりの消化、進化と言えなくもない。なお、デ・キリコは、1920年代以降も典型的な「形而上絵画」を時折制作していますが、あれらは、あえて意図的に形而上絵画を描くと決めて描いているのであって、モランディの制作とは性質を異にしていると考えられます。
しかがって、モランディの形而上絵画の時期が、特に短かったのは、要するに、開始時期が遅かったため、ということになりそうです。
以上、あまり深い調査・研究もせずに素人が勝手な自説を述べるのは我ながらいかがなものかとは思いますが、なかなか満足のいくような直接の説明・解説が存在しないため、あえて試しに書いてみた次第です。
どうかお赦しいただきたく、よろしくお願いいたします。