もう終わってしまいましたが、パリ・フォト2023にMEMが出展していました。
内容は以下のとおりです。
MEM ブース B08
会期|2023年11月9日−12日
会場|Grand Palais Ephémère (Champ-de-Mars, Place Joffre 75007 Paris)
出展作家
音納捨三、小林祐史、椎原治、高橋渡、中山岩太
https://mem-inc.jp/2023/11/09/paris-photo-2023/
ネット上はこれ以上情報がないようですので残念ですが、出展作家を見るだけでも、恐るべき内容です。これを生かした国内での企画を今後期待したいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
すでに何回かご紹介している安井仲治展、デ・キリコ展ですが、新しい情報を発見しましたので、ご案内します。
<安井仲治展>
・愛知県美術館:
https://www-art.aac.pref.aichi.jp/exhibition/000409.html
「展示作品のうち一部をご紹介します」という部分が追加されて、3点の作品が掲載されています。しかし、展示作品リストは掲載されていません。
・兵庫県立美術館
安井仲治展の特設ページが公開されています。「展示構成」は、別のページになっています。
https://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_2312/
https://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_2312/detail.html
展示作品リストは公開されていませんが、会期前ですからまだ無理でしょう。今後に期待します。
なお、いずれリンクができるのでしょうが、現時点では、この美術館の「年間スケジュール」の「安井仲治展」の部分から、この特設ページへとリンクが張られていないので不便です。
https://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/
<デ・キリコ展>
巡回先と期日がわかりました。神戸市立博物館(現在休館中)です。2会場をまとめますと、以下の通り。
東京都美術館:会期:2024年4月27日(土)から8月29日(木)
神戸市立博物館:会期:2024年9月14日(土)から12月8日(日)(予定)
他の会場へのさらなる巡回はないのか。2か所が限界ですかね?
なお、デ・キリコ展のサイトは更新されており、作品図版などが追加されていますが、一番下に小さくこの巡回先が掲載されています。これで、見つけられるのかな? 当方の場合、この部分の記載は発見することができず、巡回先を検索してしまいました。
それで発見できたのだから、結果的に検索したことは間違っていなかったともいえそうです。しかし、検索に頼ってしまうということは、方法・手段としては簡単なので、そうしてしまいがちですが、必ずしも「賢い」ことではありません。他方、何でもかんでも検索しなくては発見できないという状態は、望ましいことではありません。例えば、今回割とすぐに求めていた情報を発見できたからよかったのですが、なかなか発見できない、しかも、特にそのような情報が現時点では存在するかどうかがわからない場合、際限なく時間を消費してしまうおそれすらあります。
情報を出す側も、「どこかには情報を掲載してあるのだから、それでいいだろう。」という考え方になっていないでしょうか?。
今回のケースに即して書けば、望ましい状態は、デ・キリコ展のサイトさえ見れば、デ・キリコ展のすべての情報を見ることができる、しかも新しい情報については、すぐに気付くことができるようになっている、ということです。今後の情報、例えば、出品作品の紹介、展覧会図録の紹介や展示作品リストなどは、このサイトにて提示していっていただきたいものです。そして、以前にも書いたことですが、最終的な希望としては、展覧会終了後も、このような「展覧会サイト」を半永久的に生かしていただきたい(または、閉鎖せざるをえないというのであれば、その際に、開催館のサイトに内容を移設していただきたい)と思っています。
よろしくお願いいたします。
前衛写真についてのフォトタイムスにおける例の座談会(以下、本座談会)における瀧口修造の前衛写真論ですが、以前も書いたように、現在までに十分な批判検討がなされているようには思えません。
試みに1つの視点を書いてみたいと思います。
瀧口の言う、「ことさらにテクニック(技術)に拘泥せず、ストレートな作品でも前衛写真たりうる。」(これは瀧口本人による要約ではなく、当方が作った表現です。)、という主張はよくわかります。ここでいう、「テクニック」とは、フォトグラム、フォトモンタージュ、ソラリゼーションなどです。言い換えをすれば、「凝ったテクニックさえ使えば。前衛写真になるという考え方もおかしい。前衛写真はもっと深いものである。」という主張もよくわかります。
しかし、では具体的に、どのような「ストレートな作品」が前衛写真であり、どのような「ストレートな作品」が前衛写真ではないのでしょうか? 確かに、「前衛写真協会」のメンバーの作品が前衛写真の実例なのでしょうが、必ずしも十分な量ではありません。一部には、ストレートとは言い切れない作品すら含まれています。また、本座談会でも、浪華写真倶楽部等のテクニックを駆使した作品には瀧口の批判の矛先が向いていますが、逆に、瀧口の主張を裏付けるような作品はあまり取り上げられていないため、したがって批判もあまりなされないという、瀧口側が一方的に批判して座談会も終わったという感があります。浪華写真倶楽部側も、実作品に対してはもちろんのこと、瀧口の主張そのものに対しても明らかな反論があったという感じもなく、議論がかみ合っていなかったという感じすら残ります。それは、瀧口の主張が、抽象的に過ぎて、浪華写真倶楽部側も、ほとんど踏み込めなかった(反論しにくかった)ということではないでしょうか?(あるいは、うがった見方をすれば、踏み込むことを避けた、ということかもしれません) 批判ばかりではなく、瀧口側からもっと実例を示して、議論の対象として、議論を深めておくべきだったと言えるでしょう。
さて、では、無謀な推論ですが、瀧口的に「前衛写真の範囲」を考えるとどうなるか、要するに明確な基準を設定できない、ということに尽きるのではないでしょうか? 撮影対象物が何であるかを問わず、また、撮影者本人の意図や目的にかかわらず、(結果的に、作品そのものから判断して)前衛写真となりうる、というような、極めて「主観的な」判断になるのではないか、ここに、瀧口の主張の危うさがあります。
「どんな作品でも、受け止める側の判断により、前衛写真になりうる」と主張するとしたら、当時の「特高」でなくとも「は?」と疑問を感じずにはいられないでしょう。
要するに、別な表現をすると、ある作品が、見る人によって前衛写真になったりならなかったりする、ということです。もちろん、美術は「好み」の問題であり、定義のかなり明確な科学とは異なりますので、このように、とある「ジャンル」の境界があいまいなことは通常ありうることです。しかし、そのような前提で、他人の作品を批判することまで可能なのでしょうか? そのような批判に対してありうる反論は「あなたはそう思うかもしれないが、私はそうは思わない」というものです。これでは、反論・再反論といった「議論」になりません。仮にいくら話し合いをしても、言いっぱなしになってしまい、内容を深めることは難しいのではないかと思います。上記座談会で、浪華写真倶楽部側が瀧口説に対して明確な反論をしなかったことは、この危険性にうすうす気づいていた、ということかもしれません。
また、この考え方の逆説的な結論は、「テクニックを駆使した作品」でも、それを前衛写真だと考える人がいれば(少なくとも、撮影した浪華写真倶楽部の面々はそう考えているはずです)、前衛写真である、ということになり、それを否定できないということです。そして、他方、「テクニックを駆使した作品」よりも「ストレートな作品」の方が優れている、という主張もできないのではないか、少なくともそのような主張の根拠は明確には示せない、ということだと思います。
最後に、今回の「前衛写真の精神」の図録に濱谷浩の手の作品が掲載されていました(p52、図版番号34、タイトル「大型カメラで質感描写の実験」、1932年)。たまたま「虫食い」の入った作品です。これも、瀧口の言う「前衛写真」の作例だという趣旨なのでしょう。
そして、余談ですが、これを見たときに、この作品は、土門拳の作品ではなかったか? と勘違いしてしまいました。記憶のもととなった『日本写真全集3 近代写真の群像』を見てみると、確かにこの濱谷浩の作品は掲載されていて(p151、図版番号146、タイトル「手」、1932年、ゼラチン・シルバー・プリント、23.9x17.9cm)、おもしろいことに、次の掲載作品(濱谷浩の作品の裏のページに掲載されている作品)が、土門拳の作品で、やはり「手」を題材とした作品だったのです(p152、図版番号147、タイトル「陶工 菊揉み」、1938年、ゼラチン・シルバー・プリント、29.3x23.9cm)。これが、当方の頭の中の混同を引き起こしたのでしょう。
なお、『日本写真全集3』のこの濱谷・土門の2作品が掲載されているセクションは、「『光画』とリアル・フォト」というタイトルで、「前衛写真」を対象としている部分ではありませんが、他に、
・飯田幸次郎・看板風景(図版番号140、『光画』1932年刊1巻1号より)
・名取洋之助・外国行通信写真の一部(図版番号145、『光画』1933年刊2巻10号より、たくさんの位牌が並んだ場面を撮影した作品で、雑誌「光画」に掲載された唯一の名取作品)
なども含まれており、瀧口的な「前衛写真」観の視点から見ると、実は、ストレートな作品なのに、前衛的な味わいがあるという趣旨も含んだ作品選択だったのかもしれないと、感じます。
20世紀前半の街並みの写真や鉄道写真というものがたくさん残されていますが、これらの作品を、新興写真や前衛写真の観点や視線から見ることは可能でしょうか?
そのような作品の写真史上の位置づけについては、当方の中では未だに明確な着地点を持つことができない状態です。
このような写真作品は、ほとんどの場合、単純に対象を撮影しただけですので、特殊な撮影方法や撮影後の現像・定着・焼付などにおいて特別な手法を用いている場合でなければ、新興写真や前衛写真ととらえることはむずかしいことが多いのではないかと思います。
ただ、ストレートフォトグラフィであっても、前衛写真になりうるので、一概に、街並み、鉄道の写真でも、「新興」性、「前衛」性が否定されるわけではありません。また特に、鉄道は、「モダニズム」を経由して、「新興写真」への親和性はかなりあります。街並みにおける「建築」も「モダニズム」に近い。
「新興写真と街並み・鉄道」といったような観点から、街並みの写真や鉄道写真を紹介していただけるような企画を期待したいと思います。
鉄道と美術の150年(2029)もご参照ください。
次のようなページを発見し、安井仲治展の担当者が登場しておられました。
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/nakaji-yasui-interview-202310
日本の写真史をなぞる存在。写真家・安井仲治の魅力とは?「生誕120年 安井仲治」展を企画した3館のキュレーターが語り合う
2023年10月6日〜11月27日:愛知県美術館:中村史子(愛知県美術館学芸員)
12月16日〜2024年2月12日:兵庫県立美術館:小林公(兵庫県立美術館学芸員)
2024年2月23日〜4月14日:東京ステーションギャラリー:若山満大(東京ステーションギャラリー学芸員)
なお、中村史子さんは、No.2082でご紹介したとおり、すでに中之島美術館にご異動のようです。
他方、河出書房新社からこの安井仲治展の図録として刊行されている「安井仲治作品集」には、以下のように記載されています。
企画構成
兵庫県立美術館(小林公、尾﨑登志子)
愛知県美術館(中村史子、鵜尾佳奈)
東京ステーションギャラリー(若山満大)
共同通信社文化事業室(石原耕太)
この本については、素晴らしい内容ですので、後日またご紹介したいと思っています。
ちなみに、石原耕太さんとは、ツァイト・フォト・サロンの故石原悦郎さんとは関係ないですよね?