No.2164で、アフ・クリントの作品が「抽象絵画第三の道(第3の道)」になりうるか、ということを少し書いていましたが、現時点での当方の考えは、ネガティブです。その理由は、主として次の2点です。
なお、最初に書いておきますが、このことは、アフ・クリントの作品が優れていないとか、それに価値がないということを全く意味しておりません。あくまでも、20世紀美術史、または、抽象絵画史の中で、彼女をどう位置づけるか、という問題です。
1.アフ・クリントの活動や作品が孤立していたこと。彼女のグループとその周辺にのみ知られており、国際的な活動でもなく、ヨーロッパの抽象絵画の動向に影響も与えなかった。逆に、海外における国際的な運動からも影響を受けなかった。それは、自分の作品を公開しないようにという、彼女自身の遺志とも関係します。
それゆえ、もしも、20世紀美術史の年表に、彼女の活動・作品を入れ込むとしても、それは「点」、ないしは、せいぜい時間軸に沿った「線」です。
2.他からの影響をほとんど受けなかったがために、抽象絵画として未成熟と言わざるを得ないこと。今回の展示作品の中にも多くありますが、明らかに具象的な内容が含まれている作品が多くあります。特に、花、葉などの植物、貝などの動物です。
例えば、「10の最大物 グループIV」というシリーズは、各作品に付けられたそのサブタイトルのとおり、人生の各時期を象徴的に示している作品です。それゆえか、かなり、具象のモチーフが含まれており、抽象化は見られるものの、「抽象絵画」の別の呼び方である「絶対象」とは言えないのではないかと思います。
そもそも基本に立ち返りますが、抽象絵画とは何か? それは、「意思」だと思います。
同じ「円」を描いていても、それを「太陽」と考えて描いているか、そのままの「円」と考えて描いているか。No.2149に書きましたように、何かを描こうとしているのではなく、抽象絵画を明確にめざしているか、「抽象への意思」があるか。
アフ・クリントに関しては、「抽象への意思」が不十分だったのではないか、少なくとも弱かったのではないか、と思っています。すなわち、最終的に「抽象」を目指していたのではなく、彼女が描きたかったテーマの中に抽象的なものを取り入れた、単なる表現の手段だったのではないか?
あとは、ご本人が生きていた当時、「抽象」またはこれに近い言葉、関連する言葉をどの程度使っていたのかを確認したいところです。しかし、不思議なことに、今回の各種資料では、その点については、ほとんど触れられていないようです。彼女の自身の言葉、執筆の論文や書籍の中に、これらの用語は残されていないのかを確認していただきたいところです。
ということで、現時点では、ヒルマ・アフ・クリントの作品は、抽象絵画の「第3の道」とはいえず、それとは別の独立したひと固まりの各品群だと受け止めています。
次のようなデータベースを発見しました。
毎日新聞社のPhotoBank
https://photobank.mainichi.co.jp/
いつから公開が始まったのか、報道写真のデータベースです。
毎日新聞が「東京日日新聞」として創刊した1872年以降の、130万点以上の膨大な数の写真作品が掲載されているということです。(実際には、800万点の写真があるということですが、何らかの理由で、それをすべては公開していないようです。)
書籍、ウエブサイト等で利用する際には費用が発生しますが、検索して閲覧する分には費用はかかりません。
これはすごい。
ただ、さすがに、撮影者名の記載はありません。記録自体が全くないのか、記載しないことにしているのかはわかりませんが、確認した限りは、撮影者が記載されている作品は発見できませんでした。
また、写真の検索ですが、実は、なかなか難しい。「報道写真」ですから、通常は何が撮影されているかで検索すればいいので、個人名、事件名などが考えられます。ただ、個人名でも、「瀧口修造」「古賀春江」「北脇昇」などではヒットしません。「福沢一郎」ではヒットしますが、文化勲章受章の写真だけでした。美術に関する個人についての写真については、あまり点数が多いとは言えないのかもしれません。また、写真のタイプ・傾向ということについて大久保好六を例にして書くと、彼は朝日新聞社ですから、このデータベースに彼の作品は含まれていないわけですが、それと似たようなフォトモンタージュやモダンな報道写真の作品があるかないかを調べるのは、検索では難しいようです。「フォトモンタージュ」ではヒットしませんし、逆に「モダン」では関係のない写真ばかりがたくさんヒットしてしまいます。
さらにもっと調べてみます。
なお、他の新聞社、出版社、テレビ局などでも、このような写真作品のデータベースを公開してもらえればと思うのですが?
どうか、よろしくお願いします。
次の本が刊行されています。
東京美術学校物語
新関公子
岩波新書
2025年3月
1056円
目次は以下のとおりです。
まえがき――『東京美術学校物語』の基礎としての『東京芸術大学百年史』の存在について
第一章 日本はいつ西洋と出会ったか――キーワードは遠近法
第二章 ジャポニスムの誕生――慶応三年パリ万国博覧会への参加
第三章 欧化を急げ――明治初期の国際主義的文化政策
第四章 反動としての国粋主義の台頭
第五章 美術学校設立の内定とフェノロサ、岡倉の欧米視察旅行
第六章 国粋的美術学校の理念の確立にむけて
第七章 開校された美術学校――フェノロサ、岡倉の教育プログラム
第八章 図案科、西洋画科の開設と岡倉の失脚
第九章 一九〇〇年パリ万国博覧会への参加
第一〇章 正木直彦校長時代の三〇年と七ヶ月
第一一章 和田英作校長時代の四年間
第一二章 戦時下の東京美術学校とその終焉
『東京美術学校物語』関連年表
あとがき
著者の新関公子(杉本公子)さんは、1940年生まれで、東京芸術大学名誉教授.専攻は美術史で、過去の著書を見ると、対象は日本も海外も、そしておそらく、19世紀末から20世紀がご専門ではないかと思われます。
第二次世界大戦までの時期が対象で、なかなか面白そうではあります。ただ、個人的には、中山岩太が卒業した「臨時写真科」について知りたかったのですが、目次を見る限りは、その情報はなさそうです。やはり、このような、その歴史の全体を見るような本では、特定の分野についての記述は、細かすぎて、なかなかむずかしいのでしょう。
また、「臨時写真科」について(その後どうなったかも含めて)書くとしたら、実は、新書1冊くらい必要でしょう。全卒業生を網羅して、卒業後の進路・活動を内容に含めたような、そんな本を希望しています。そういう新書を、どなたか1冊書いていただきたいものです。
なお、「臨時写真科」は、その後、「東京高等工芸学校写真部」となり、戦後は「千葉大学工芸学部(→千葉大学工学部)」となっているということのようですが、現在はどうなっているかはよくわかりません。
千葉大学工学部のホームページによると、現在、千葉大学工学部は、「総合工学科」という1つの「学科」しかなく、その下に、次に9つの「コース」があるそうです。
・建築学コース
・都市工学コース(旧・都市環境システムコース)
・デザインコース
・機械工学コース
・医工学コース
・電気電子工学コース
・物質科学コース
・共生応用化学コース
・情報工学コース(※令和6年4月より情報・データサイエンス学部になる)
しかし、この中に「写真」や「画像」といった言葉は出てきません。流れとしては「デザインコース」につながっているのではないか、と思って調べてみましたが、このコースについては、少なくとも「写真」を大きくは紹介しておらず、よくわかりませんでした。「写真」という流れは、徐々に先細りとなり、もしかすると、現在はあまり重視されておらず、実質的に「デザイン」に吸収されてしまっているのかもしれません。
卒業生を見ると、戦後もある時点までは、写真家の卒業生がいるので(荒木経惟は1963年千葉大学工学部写真印刷工学科卒業、白鳥真太郎は1970年頃千葉大学工学部写真工学科卒業、山田一仁は1981年千葉大学工学部画像工学科卒業など)、ある程度盛んだったのではないかと思うのですが。「画像工学科」というものが、この後どうなったのか、という点がポイントなのかとも思います。のちの「画像科学科」や「情報画像学科」(しかし、上記のとおり、現在は存在しない)につながっているのかもしれません。
こんな情報は、非常に基本的な事項だと思うのですが、すぐには発見できません。これを情報不足と呼ばずに、何と呼ぶのでしょうか。
現在開催中のミロ展の情報を見ていたら、Joan Miroに対して、「ジュアン・ミロ」という表記があって、「あれ、間違っている?」と思ったのですが、実は、間違っていなくて、
ジョアン・ミロ
ジュアン・ミロ
の2つの表記があって、いずれも間違いではなく、最近はむしろジュアン・ミロが優勢になりつつあるようです。「Joan」というつづりだから、「ジョ」だと思い込んでいるとそうでもないということで、名前の読み方は難しいものです。
さらに、かつては、
ホアン・ミロ
という表記もあったと思うのですが、これは、スペイン語の中でも、カスティーリャ語式の読みだそうで、ミロの出身地の言葉であるカタルーニャ語では、「ジョアン・ミロ」か「ジュアン・ミロ」なのだそうです。
そうだとすると、Juan Grisも
ホアン・グリス(フアン・グリス、ファン・グリス)
と呼ばれることが多いと思うのですが、このままで大丈夫かなと調べてみると、どうやらマドリード出身なので、この作家の場合はこれが正しいようです。
名前の読み方はややこしい。
慎重に考えねばなりません。
パウル・クレー展の関東への巡回先の情報がないか気にしていたのですが、何と、関東への巡回はありません。最後は、静岡市美術館です。
パウル・クレー展 創造をめぐる星座
愛知県美術館:2025年1月18日(土)〜3月16日(日)
兵庫県立美術館:2025年3月29日(土)〜5月25日(日)
静岡市美術館:2025年6月7日(土)〜8月3日(日)
https://static.chunichi.co.jp/chunichi/pages/event/paulklee_aichi/
結構驚きですね。
これから先に、新しく決まる可能性も残っていますが、可能性は低いのではないでしょうか。
関東や特に東京の個々の美術館がどうということよりも、関東全体として、会場が設定できないほど不足している、または、費用が負担できないほど苦境に陥っているということでしょうか?
他方、ミロ展は、東京都美術館だけで、巡回はない!ようです。
東京都美術館:2025年3月1日(土)~7月6日(日)
もしかすと、こちらは今後巡回先が出てくるかもしれません。しかし、それにしても、天下の「ミロ展」なのに、開催する側も訪問する側も「低調」と言わざるを得ません。