(つづき)
1920-1929
1920 ダダ見本市がベルリンで開かれる。アヴァンギャルド文化と伝統文化との二極化が芸術実践の政治化をもたらし、新しい媒体としてのフォトモンタージュが誕生する。186
1921a 第一次大戦後、モダニズムを支配した様式である〈綜合的〉キュビスムを展開していくにあたり、ピカソは『三人の楽士』でニコラ・プッサンの古典主義を徴用する。192
コラム:ボヘミア生活の諸情景
1921b モスクワ〈芸術文化研究所〉のメンバーが、新たな集団的社会の求めに応答する論理的実践として構成主義を定義する。198
コラム:ソヴィエトの諸機関
1922 ハンス・プリンツホルンが『精神疾患患者の芸術性』を出版する。パウル・クレーとマックス・エルンストは作品の中で『「狂人」の芸術』を探求する。204
1923 20世紀に最も影響力を持ったモダニズムの芸術とデザインの学校であるバウハウスが、ドイツ・ヴァイマールで初めての一般展示会を開く。209
1924 アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム革命』第1号を刊行し、シュルレアリスムの美学のための用語を確立する。214
コラム:シュルレアリスムの雑誌
1925a パリのアール・デコ博覧会が現代版キッチュの誕生を告げるかたわら、ル・コルビュジェの機械美学はモダニズムの悪夢となり。アレクサンドル・ロトチェンコの〈労働者クラブ〉は人間とモノとの新たな関係を唱道する。220
コラム:ブラック・デコ
1925b キュレーターのグルタフ・F・ハルトラウプが、ノイエ・ザッハリッヒカイト絵画の最初の展覧会をカールスルーエとマンハイムで組織する。秩序への回帰に属する国際的諸傾向の一変種である。この新たな「魔術的リアリズム」がドイツにおける表現主義ならびにダダの諸実践の終焉を告げる。226
1925c オスカー・シュレンマーが『バウハウスの舞台』を発表し、マネキンとアウトマトンを近代的なパフォーマンスのモデルとして提示する。また他の者、とくにダダ運動に関わった女性芸術家たちが、人形や操り人形の孕み持つ寓意としての可能性を探求する。232
1925d 5月3日、ベルリンで「絶対映画」と題するアヴァンギャルド映画の公開上映会が開かれる。プログラムには、抽象というプロジェクトをフィルムという手段で継続するハンス・リヒター、ヴィキング・エッゲリング、ヴァルター・ルットマン、フェルナン・レジェらの実験作品が含まれている。238
1926 エリ・リシツキイの『デモンストレーション・ルーム』とクルト・シュヴィッタースの『メルツバウ』がドイツのハノーファーに設置される。アーカイヴとしての美術館建築とメランコリアとしてのモダニズム空間のアレゴリーが、弁証法を成すものとして、構成主義者とダダイストによって構想される。244
1927a ブリュッセルで商業美術家として働いていたルネ・マグリットがパリのシュルレアリスム運動に参加する。パリでの彼の作品は、広告の表現形式や、言語と表象の多義性をたくみに利用する。248
1927b コンスタンティン・ブランクーシが『新生児』をステンレスで鋳造する。彼の彫刻は高級芸術というモデルと工業生産というモデルのあいだの戦いを引き起こし、これは『空間の鳥』をめぐって米国で行われた裁判で頂点に達する。252
1927c チャールズ・シーラーがフォード社に、リヴァー・ルージュの新自社工場のドキュメントを委嘱される。北米のモダニストたちが、機械時代との間に叙情的な関係を発展させ、ジョージア・オキーフはそれを自然界にまで拡張する。256
コラム:MoMAとアルフレッド・バー・ジュニア
1928a ヴワディスワフ・スツシェミンスキが「絵画におけるウニズム」を、つづけて1931年にはカタルヅナ・コブロと共同で彫刻論の書『空間のコンポジション』を公刊し、構成主義国際化の頂点をしるしづける。262
1928b ヤン・チヒョルト著『新しいタイポグラフィ』が刊行され、ソヴィエト・アヴァンギャルドの生産が西欧資本主義諸国の書籍デザインと広告に及ぼした影響を確証し、ひとつのインターナショナル・スタイルの出現を批准する。268
1929 ドイツ工作連盟によって企画され、シュトゥットガルトで5月18日から7月7日にかけて開催された「映画と写真」展が、国際的な写真実践と写真論争の拡がりを展示する。同展は20世紀写真中ひとつのクライマックスを画定し、この媒体の新たな批評理論と歴史記述の出現をしるしづける。274
1930-1939
1930a 1920,30年代のヴァイマール・ドイツにおける大衆消費・ファッション雑誌の導入が写真イメージの生産と流通配布のための新たな枠組みを生み出し、一群の重要な女性写真家たちの登場を助けることになる。282
1930b ジョルジュ・バタイユが『ドキュマン』誌上で『未開美術』を書評、プリミティヴィズムに関わるアヴァンギャルド内部のずれ、そしてシュルレアリスム内部の深い亀裂を明るみに出す。287
コラム:カール・アインシュタイン
1931a アルベルト・ジャコメッティ、サルバドール・ダリ、アンドレ・ブルトンが「象徴的機能を持ったオブジェ」に関する文章を雑誌『革命に奉仕するシュルレアリスム』に発表する。シュルレアリスムがそのフェティシズムと幻想の美学をオブジェ制作の領域にまで拡大する。292
1931b ジョアン・ミロが「絵画を殺戮」するという誓いを新たにし、アレクサンダー・コールダーが繊細な作りのモビールから鈍重なスタビルへと彫刻の作風を変える。ヨーロッパの絵画と彫刻は、ジョルジュ・バタイユのいう「無形」という概念を反映した新しい感覚を表しはじめる。297
1933 ロックフェラー・センターの壁画にディエゴ・リベラが描きこんだレーニンの肖像をめぐってスキャンダルが巻き起きる。メキシコ壁画運動はアメリカの各所で公共の政治的壁画作品を創り出し、合衆国の政治的アヴァンギャルドにとっての先例を確立する。303
1934a 第1回作家同盟会議において、アンドレイ・ジダーノフはソビエト社会主義リアリズムのドクトリンを発表する。306
1934b ヘンリー・ムーアが「彫刻家の目的」の中で、具象と抽象、シュルレアリスムと構成主義のあいだを媒介する。英国流直彫りの美学を明確に打ち出す。314
1935 ヴァルター・ベンヤミンが『技術的複製可能性の時代の芸術作品』の草稿を執筆し、アンドレ・マルローが「想像の美術館」を開始し、マルセル・デュシャンが『トランク型ボックス』に着手する。写真を介して芸術内部へと表面化してきた機械的複製のインパクトが、美の理論、美術史、そして芸術の実践において実感される。319
1936 フランクリン・D・ルーズヴェルトのニューディール政策の一環として、ウォーカー・エヴァンズ、ドロシア・ラングを始めとする写真家たちが、大恐慌にみまわれたアメリカの田舎をドキュメントすることを委嘱される。324
コラム:雇用促進局(WPA)
1937a パリ万国博覧会において、欧州列強が自国の芸術・商業の顕彰とプロパガンダを目的としたパヴィリオンを建設し競い合う一方、ナチスはミュンヘンでモダニズム芸術を糾弾する大規模な『退廃「芸術」』展を開催する。329
1937b ナウム・ガボ、ベン・ニコルソン、レズリー・マーティンがロンドンで『サークル』を刊行、幾何学的抽象の制度化を強固なものとする。334
1937c パブロ・ピカソがパリ万国博覧会スペイン共和国パヴィリオンにて『ゲルニカ』を公開する。338