No.1826で、刊行されることだけご紹介していた『図鑑1900年以降の芸術』ですが(とともに、No.1842で写真について少々)、目次すらご紹介できていなかったので、ここでご紹介いたします。
この本の目次は、各項目名が長いという特別なものとなっています。
長くなりますが、せっかくですので、20世紀前半だけでなく、20世紀後半も含めた全体をご紹介いたします。
目次
ART SINCE 1900 刊行にあたって 3
本書の使い方 12
まえがき――読者のためのガイド 14
Introductuins 16
1 モダニズムにおける精神分析、方法としての精神分析 17
2 芸術の社会性――モデルとコンセプト 24
3 フォーマリズムと構造主義 34
4 ポスト構造主義と脱構築 42
5 グローバル化、ネットワーク、形式としてのアグリゲイト 51
1900-1909
1900a ジークムント・フロイトが『夢解釈』を出版する。ヴィーンでは、グスタフ・クリムト、エゴン・シ-レ、オスカー・ココシュカによる表現主義芸術の台頭が、精神分析学の登場と軌を一にする。64
1900b アンリ・マティスがオーギュスト・ロダンをパリのアトリエに訪れるが、この先輩芸術家の彫刻様式を取り入れることは拒む。69
1903 ポール・ゴーギャンが南太平洋上のマルキーズ諸島で生涯を閉じる。ゴーギャンにおける部族芸術の採用とプリミティヴィズムの幻想は、アンドレ。ドラン、アンリ・マティス、パブロ・ピカソ、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーに影響を与える。76
コラム:エキゾチックなものと素朴なもの
1906 ポール・セザンヌが南仏エクス・アン・プロヴァンスで没する。前年のフィンセント・ファン・ゴッホとジョルジュ・スーラの回顧展開催に続くセザンヌの死とともにポスト印象主義は歴史的過去となり、フォーヴィすむがその後継ぎの役を割り振られる。82
コラム:ロジャー・フライとブルームズベリー・グループ
1907 『アヴィニョンの娘たち』の一貫性を欠いた様式とプリミティヴィズム的衝動とをもってピカソは、模倣的表象=再現に対し前代未聞の恐るべき攻撃を仕掛ける。90
コラム:ガートルード・スタイン
1908 ヴィルヘルム・ヴォリンガーが『抽象と感情移入』を出版し、抽象芸術と再現芸術を、世界からの逃避と世界への関与として対比させる。ドイツ表現主義とイギリスのヴォーティシズムは、この両極の心理を独自の方法で探求する。97
1909 F・T・マリネッティが未来主義の最初の宣言を、パリの『ル・フィガロ』一面で発表する。アヴァンギャルドは初めてメディア文化とつながり、歴史と伝統に反抗する位置に立った。102
コラム:エドワード・マイブリッジとエティエンヌ・ジュール・マレー
1910-1919
1910 アンリ・マティスの『ダンスII』と『音楽』がパリのサロン・ドトンヌで断罪される。この2点においてマティスは自分の考える「装飾的なもの」を極限まで押し進め、拡張する色彩の視覚フィールドを創り出す。このフィールドは、〈見据える〉という行為に困難を突きつける。112
1911 パブロ・ピカソがパリのルーヴル美術館から「借りて」いたイベリア半島の石頭像2点を返却する(実は同館からの盗品であった)。ピカソは自身のプリミティヴィズム様式を変容させ、ジョルジュ・ブラックとともに分析的キュビスムを発展させはじめる。
コラム:ギョーム・アポリネール
1912 キュビスムのコラージュが創出される。その周囲ではさまざまな状況や事件――象徴主義詩は衰えることのない霊感源でありつづけ、大衆文化は高まりを見せ、社会主義者はバルカン半島での戦争に対し抗議活動を展開する――がたがいに衝突しあう。124
1913 ベルリンにおいて、ロベール・ドローネーは『窓』の連作を発表する。抽象の理論的枠組みと問題が汎ヨーロッパ的に練り上げられる。130
1914 ヴラジミル・タトリンは構成主義を発展させ、マルセル・デュシャンはレディメイドを提案する。前者はキュビスムからの変容を、後者はキュビスムとの断絶を告げる。そうするなかで彼らは、伝統的な芸術媒体に対し、相互補完的な2種の批判を呈示する。137
コラム:「ポー・ド・ウルス」
1915 カジミル・マレーヴィチはペトログラードでの「0.10」展でスプレマティズム絵画を公開し、かくしてロシア・フォルマリズムの考える美術と文学とを同一線上に置く。142
1916a 第一次世界大戦という破局と、未来主義・表現主義の挑発的な姿勢への二重の反動としてチューリッヒで国際的なダダの運動が始まる。147
コラム:ダダの雑誌
1916b アルフレッド・スティーグリッツの雑誌『カメラ・ワーク』の紙面にポール・ストランドが登場する。米国のアヴァンギャルドは、写真と諸芸術の複雑な関係性の周囲で自己形成する。154
コラム:アーモリー・ショー
1917a 2年間に及ぶ集中的な探求のはてにピート・モンドリアンは抽象へと突き抜け、続いて新造形主義を創始する。160
1917b 1917年10月、オランダの小都市ライデンでテオ・ファン・ドゥースブルフが雑誌『デ・ステイル』を創刊する。1922年までは月刊、そのあとは不定期刊。最終号は1932年、ファン・ドゥースブルフがスイスの療養所で亡くなったあとまもなく、彼へのオマージュとして出版される。166
1918 マルセル・デュシャンが『tu m'』を描く。彼にとって最後の絵画となるこの作品は、制作活動において試みてきた新機軸の数々、たとえば偶然の使用、レディメイドの提唱、写真の「インデックス」という地位などを要約している。172
コラム:ローズ・セラヴィ
1919 パブロ・ピカソがパリでは13年ぶりとなる個展を開催する。作品にはパスティーシュが姿を見せており、同じ時期にモダニズムへの反動が拡大していく。178
コラム:セルゲイ・ジャーギレフとバレエ・リュス
コラム:秩序への回帰