忍者ブログ

開催してほしい展覧会(20世紀前半篇)

『図鑑1900年以後の芸術』の目次(その3)(1948)

(つづき)

1940-1944

 

1942a アメリカ・アヴァンギャルドの脱政治化が不回帰点に達し、クレメント・グリーンバーグと『パーティザン・リヴュー』誌の編集者たちはマルクス主義に別れを告げる。348

1942b 第二次世界大戦により多くのシュルレアリストがフランスから合衆国への移住を余儀なくされる中、ニューヨークで開催された二つの展覧会がそれぞれ異なる方法でこの亡命の状況に反省的思考をめぐらせる。353

コラム:亡命者たちと移民たち

コラム:ペギー・グッゲンハイム

1943 アフリカ系アメリカ人芸術に関する最初の学術的研究書、ジェイムズ・A・ポーター著『現代のニグロ芸術』がニューヨークで刊行。同地ではハーレム・ルネサンスとともに、人種を意識し文化的遺産を継承しようとする動きが高まっていた。358

1944a ピート・モンドリアンが死去。『ヴィクトリー・ブギウギ』が未完のまま残される。絵画を破壊という営みとして捉えるモンドリアンの見方の典型的に示す作品である。364

1944b 第二次世界大戦の勃発とともに、モダンアートの「オールドマスター」たち――マティス。ピカソ、ブラック、ボナール――は、野蛮に対する抵抗として、占領下のフランスを逃れることを拒否する。彼らが戦時中に発達させた様式はパリ解放後、新世代の芸術家たちにとって難関となる。369

 

座談会1 20世紀なかばにおける芸術 374

 

1945-1949

 

1945 デイヴィッド・スミスが『日曜日の記念柱』を創作する。構成による彫刻は伝統的な芸術の手わざという基盤と近代製造法の工業という基盤のはざまに留め置かれる。388

1946 ジャン・デュビュッフェが「厚塗り」を発表し、戦後フランス美術の中にスカトロジカルな傾向が存在することを確証する。この傾向はまもなく「アンフォルメル」と名づけられる。393

コラム:アール・ブリュット

1947a ラースロー・モホイ-ナジがシカゴで死去した1年前、ヨーゼフ・アルバ―スがノースカロライナ州のブラック・マウンテン・カレッジで「変種」絵画を開始する。バウハウスのモデルはアメリカへ紹介され、さまざまに異なる芸術的要請と制度的圧力によってそのかたちを変える。399

1947b ニューヨークで『ポシビリティーズ』誌が出版され、抽象表現主義が一個の運動としてのまとまりを獲得したことをしるしづける。404

1949a 『ライフ』誌が「彼は合衆国で最も偉大な存命画家か?」と読者に問いかける。ジャクソン・ポロックの作品は先進的芸術の象徴として浮上する。411

1949b コペンハーゲン、ブリュッセル、アムステルダムの若い芸術家が緩やかに結束したグループであるコブラがその名を冠した雑誌を創刊し、「生の根源」への回帰を訴える。一方、イングランドではニュー・ブルータリズムが戦後の緊縮条件に即した生のままの美学を提唱する。416

 

1950-1959

 

1951 バーネット・ニューマンの第2回展覧会が失敗に終わる。ニューマンは同僚たる抽象表現主義者たちからは村八分にされるが、のちにミニマリズムのアーティストたちに父親的存在として称揚されることになる。424

1953 作曲家ジョン・ケージがロバート・ラウシェンバーグの『タイヤ・プリント』制作に協力する。インデックス的押印が、ラウシェンバーグ。エルズワース・ケリー、サイ・トゥオンブリの作品の中で、表現としてのマークに対抗する武器として開発される。430

1955a 東京で初めての展覧会に際し、具体グループの作家たちはジャクソン・ポロックのドリップ絵画に新しい読みを提案する。伝統的な美学と関わり、「アクション・ペインティング」という言葉を字義通りな仕方で解釈してみせる読みである。435

1955b パリのギャルリー・ドニーズ・ルネにおける「運動」展がキネティシズムを発足させる。441

1956 英国ロンドンの『これが明日だ』展が、ポップ・アートの先駆者インデペンデント・グループが企てた戦後における芸術、科学、技術、プロダクト・デザイン、大衆文化の関係についての研究の到達点を示す。447

1957a ふたつの小さなアヴァンギャルド集団、レトリスト・インターナショナルとイマジニスト・バウハウスが合流してシチュアシオニスト・インターナショナルを結成する。戦後でいちばん積極的に政治参加した運動である。453

コラム:『スペクタクルの世界』から2テーゼ

1957b アド・ラインハートが『新たなアカデミーのための12のルール』を著す。絵画におけるアヴァンギャルドのパラダイムがヨーロッパにおいて再編成され、合衆国ではラインハート、ロバート・ライマン、アグネス・マーティンらその他により、モノクロームとグリッドが探求される。460

1958 ジャスパー・ジョーンズの『4つの顔のある標的』が『アートニューズ』誌の表紙に登場する。ジョーンズは、フランク・ステラのような一部のアーティストに対しては、図と地が融合し単一の〈イメージ・物体〉となった絵画のモデルを提示し、他のアーティストたちに対しては、日常的記号の使用と概念の曖昧さの使用の両方を解禁する。466

コラム:ルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン

1959a ルーチョ・フォンターナが初の個展を開催する。彼はキッチュを連想させることを通じて観念論的なモダニズムに疑問を呈し、この批判は秘蔵っ子マンゾーニに引き継がれる。473

1959b サンフランシスコ美術館でブルース・コナーが『子ども』を展示する。幼児椅子に座り手足を切断された人物像であり、死刑に抗議してつくられた作品である。西海岸でコナー、ウォレス・バーマン、エド・キーンホルツらによりアッサンブラージュとエンヴァイロメントが発達を遂げ、ニューヨークやパリ、あるいは他のどの場所と比べてもざらついた感触を呈する。477

1959c ニューヨーク近代美術館が「人間の新しいイメージ」展を開催する。アルベルト・ジャコメッティ、ジャン・デュビュッフェ、フランシス・ベイコン、ヴィレム・デ・クーニングらの作品において、実存主義美学は冷戦期具象の政治へと延長される。483

コラム:芸術と冷戦

1959d リチャード・アヴェドンの『オブザヴェイション』とロバート・フランク『アメリカ人』がニューヨーク派の写真と弁証法的な規定要因を確立する。488

1959e 〈新具体主義芸術宣言〉がリオ・デ・ジャネイロで、日刊紙『ブラジル日報』に見開きで掲載され、当時支配的だった合理主義的な幾何学的抽象解釈に代えて現象学的解釈を導入する。494

拍手[0回]

PR

コメント

プロフィール

HN:
Akihoshi Yokoran
性別:
非公開

P R