(つづき)
1960-1969
1960a 批評家ピエール・レスタニがパリで多様なアーティストを集めてヌーヴォー・レアリスムを組織し、コラージュ、れでぅメイド、モノクロームのパラダイムを定義しなおす。504
コラム:ネオ・アヴァンギャルド
1960b クレメント・グリーンバーグが「モダニズムの絵画」を発表する。彼の批評は方向性を改め、新しい装いをまとって60年代の様々な論争の形姿を決定する。
コラム:リオ・スタインバーグとフラットヘッド会画面
1960c ロイ・リクテンスタインとアンディ・ウォーホールが漫画と広告のイメージを絵画に使い始める。ジェイムズ・ローゼンクイスト、エド・ルーシェイらがそれに続き、アメリカン・ポップが生まれる。515
1961 12月、クレス・オルデンバーグがニューヨークのイーストヴィレッジに『ザ・ストア』を開く。これは「エンヴァイロメント」であり、周辺の安物を売る店の構えを真似ていて、置いてあるアイテムはすべて売り物だった。この冬と翌年の春、『ザ・ストア』を場とするオルデンバーグの〈光線銃シアター〉が10回にわたって異なるさまざまな「ハプニング」を上演する。520
1962a 西ドイツ、ヴィースバーデンにて、ジョージ・マチューナスが一連の国際イヴェントの第1回を組織し、フルクサス運動の結成をしるしづける。526
1962b ヴィーンでギュンター・ブルス、オットー・ミュール、ヘアマン・ニッチェらアーティストの一団が結集してヴィーン行為主義を結成する。534
1962c カミラ・グレイの『偉大な実験――ロシア芸術 1863-1922』の出版に刺激され、ヴラジミル・タトリンやアレクサンドル・ロトチェンコらの構成主義原理に対する関心が西側で息を吹き返し、ダン・フレイヴィン、カール・アンドレ、ソル・ルウィットら若手アーティストたちにより、さまざまに異なる方法で練り上げられる。540
コラム:『アートフォーラム』
1962d クレメント・グリーンバーグは初期ポップ・アートの抽象的側面を認めた最初の人物であり、この側面はポップ・アートの先導的唱道者や彼らのあとに従った者たちの作品に繰り返し特色として現れる。545
1963 ゲオルク・バゼリッツが、画家オイゲン・シェーネベックとともにふたつのマニフェストを発表したのち、ベルリンで『台無しになった大いなる夜』を展示する。551
1964a 7月20日、シュタウフェンベルクによるヒトラー暗殺未遂事件から20年目のこの日、ヨーゼフ・ボイスは架空の自伝を刊行する。また西ドイツのアーヘンでは、「新芸術のフェスティヴァル」において観衆による暴力を引き起こす。556
1964b アンディ・ウォーホールの『13人の最重要指名手配者』がニューヨーク万博の同州パヴィリオンのファサードに、ごく短いあいだ設置される。562
1965 ドナルド・ジャッドが「特定的な物体」を発表する。ミニマリズムがその主要な実践を担ったジャッドとロバート・モリスの手で理論化される。568
コラム:モーリス・メロル・ポンティ
1966a マルセル・デュシャンがフィラデルフィア美術館のインスタレーション『与えられたとせよ』を完成させる。没後にこの新作が公開されたことで、若手アーティストたちに対して強まりつつあった彼の影響力は絶頂に達する。572
1966b ニューヨークで「エクセントリック・アブストラクション」展が開催する。ルイーズ・ブルジョワ、エヴァ・ヘッセ、草間彌生らの作品はミニマリズムの彫刻言語に対する表現性に富んだオルタナティヴを指し示す。576
1967a ロバート・スミッソンが「ニュージャージー州パセーイクのモニュメント巡り」を発表。1960年代末のアート実践にとって生成的なコンセプトとして「エントロピー」をマークする。581
1967b イタリアの批評家ジェルマーノ・チェーラントが最初のアルテ・ポーヴェラ展を開催。585
1967c フランスのグループBMTPが最初の発表活動に際して公開絵画制作を行い、めいめいが特定の布置を選び、それを複数のキャンヴァスにそっくりそのまま繰り返して描く。独自のコンセプチュアリズム絵画である。戦後フランスで「公式」とされていたタイプの抽象に対しては以前から攻撃が仕掛けられていたが、その最新のもの。591
1968a 1960年代の最も先進的なヨーロッパとアメリカの美術にコミットしていた二つの主要な美術館――アイントホーフェンのファン・アッペ市立美術館とメンヒェングラートバッハのアプタイベルク美術館――がベアント&ヒラ・ベッヒャー夫妻の作品を展示し、ふたりをコンセプチュアル・アートと写真に対する関心の最前面に位置づける。597
1868b コンセプチュアル・アートがソル・ルウィット、ダン・グレアム、ローレンス・ウィーナーの出版物の中に発現し、セス・シーゲローブによって最初の展覧会が組織される。
コラム:アーティスト主宰の雑誌
コラム:脱スキル化
1969 ベルリンとロンドンでの「態度がかたちになるとき」展がポストミニマリズムの諸展開を概観する一方、ニューヨークでの「反イリュージョン――手続き/素材」展はプロセス・アートに焦点を合わせる。プロセス・アートの主要3側面をリチャード・セラ、ロバート・モリス、エヴァ・ヘッセが練り上げる。610
1970-1979
1970 マイケル・アッシャーが『ポモーナ大学プロジェクト』を設置。サイト-スペシフィックな作品が、モダニズムの彫刻とコンセプチュアル・アートのあいだにひとつのロジックの領野を開く。616
1971 ニューヨークのグッゲンハイム美術館がハンス・ハーケの展覧会を中止し、第6回グッゲンハイム国際展へのダニエル・ビュレンヌの参加を弾圧する。制度批判の実践がミニマリズム世代の抵抗に直面する。621
コラム:ミシェル・フーコー
1972a マルセル・ブロータースが西ドイツのデュッセルドルフに「近代美術館、鷲部門、図像セクション」を設置する。625
1972b 国際展ドクメンタ5が西ドイツのカッセルで開催され、ヨーロッパにおけるコンセプチュアル・アートの制度的受容をしるしづける。630
1972c 『ラスヴェガスから学ぶ』が刊行される。ラスヴェガスだけでなくポップ・アートからもインスピレーションを得た建築家ロバート・ヴェンチューリとデニース・スコット・ブラウンが、「あひる」つまり彫刻的形態としての建築を避けて「装飾された小屋」を擁護する。そこではポップな記号が前景化されて、ポストモダンのデザイン様式の語彙が準備された。636
1973 キッチン・センター・フォー・ヴィデオ・ミュージック・アンド・ダンスがニューヨークにスペースをオープンする。ヴィデオ・アートが視覚アートとパフォーマンス・アート、テレビと映画のあいだで、制度の中に一個の居場所を要求する。644
1974 クリス・バーデンがフォルクスワーゲン・ビートルに釘づけにされる『刺し貫かれて』において、米国におけるパフォーマンス・アートは肉体の現前という点でひとつの極限に達し、同じ傾向に従う多くのアーティストたちはこのような実践を断念したり、穏健化したり、あるいは別の形に転じさせたりする。649
1975a 映画作家のローラ・マルヴィが画期的試論「視覚的快楽とナラティヴ映画」を発表し、ジュディ・シカゴやメアリー・ケリーらフェミニズム・アーティストが女性表現についてさまざまに異なる立場を発展させる。654
コラム:理論誌
1975b イリヤ・カバコフがアルバム・シリーズ『十の人物』を完成させる。モスクワ・コンセプチュアリズムの重要なモニュメントである。660
1976 ニューヨークで、P.S.1がメトロポリタン美術館における「ツタンカーメン」展と時を同じくして開設される。制度=機関的構造の麺でアートワールドに生じていた重大なシフトが、オルタナティヴ・スペースとブロックバスター展覧会の両方によって記銘される。668
1977a 「ピクチャーズ」展が開催され、若手アーティストたちをひとつのグループとして同定する。アプロプリエイションやオリジナリティ批判といった彼らの戦略は、アートにおける「ポストモダニズム」の概念を提出する。672
1977b ハーモニーハモンドが新たに創刊された雑誌『ヘレシーズ』でフェミニズムの抽象を弁護する。676