少し前ですが、次の本が刊行されています。
筑摩選書
「暮し」のファシズム―戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってきた
大塚 英志
筑摩書房(2021/03発売)
価格 ¥1,980(本体¥1,800)
目次は以下のとおりです。
目次
序章 戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってくる
第1章 花森安治と「女文字」のプロパガンダ
第2章 太宰治の女性一人称小説と戦争メディアミックス
第3章 戦時下のミニマリスト詩人・尾崎喜八の「隣組」
第4章 「サザエさん」一家はどこから来たのか
第5章 制服女学生とガスマスクのある日常
付論 花森安治の小説とモダニズム
あとがき
この本は、日本において、戦争やファシズムが、音もなく日常生活の中に入り込んできていたという例をいくつも紹介している面白い本です。
ただ、この本を書店で目にした方の中には、表紙に掲載されている、堀野正雄が撮影した比較的有名な写真「制服を着た多数の女学生がガスマスクをして行進する」という内容のやや不穏な作品(1936年発表)に目を取られて本を手に取ったというかたも多くおられるのではないでしょうか。まさに当方が「この作品を知っている」と思って本を手に取るという体験をしました。この作品については、「第5章 制服女学生とガスマスクのある日常」にて検討されていますが、そこでは、この写真作品を「モード」や「機械美」と結びつけて論じています。すなわち、この作品において、「制服」が必須であり、かつ、「多数で行進する」ということも必要であった、ということだと思います。そして、特に、「制服」に重点が置かれ、「自由」のとらえ方の変化とも関連させて「制服」の解説がなされています。ただ、いかんせん、ページが少ないため、特に「写真史」の観点については、十分に論じ切れていない部分が多くあると思っています。
例えば「機械美」は当然もっと深く掘り下げることができますが、ロトチェンコの作品とクルルの名前といった、本当にさわりだけに終わってしまっています。海外や国内の実例についてももっと触れていただきたかったところです。さらに進んで、モンタージュについても少し触れられていますが、それだけ、ということで、不満が残ります(実際、『FRONT』も触れられています)。そして、これらの先には、「プロパガンダ」が控えています。確かに「付論 花森安治の小説とモダニズム」でも「堀野正雄とプロパガンダ」には触れられてはいますが、やはり物足りない(なお、花森安治とプロパガンダの関係は、章題から明らかのとおり、むしろ第1章で取り扱われています)。「付論」には今泉武治(デザイナー、報道技術研究会)の1932年の写真アルバムを紹介するなど、初めての試みも存在するのではありますが。ただ、むしろ付論では、堀野と花森安治との関係を花森側から論じ、「モード」や「新生活」や「近衛新体制」にも結び付け、それはそれで興味深い内容です。本格的に「プロパガンダ」を扱うとなれば、また、とても大きな話になっていくでしょう。
他方、「モード」のほうですが、実は写真史の世界でも、この点の研究は不十分ではないかと思います。戦前の日本写真史における「モード」について、女性美とも関連させることで、もっと論じられるべきだと思います(なお、2012年の東京都写真美術館の展覧会カタログに該当する『幻のモダニスト 写真家堀野正雄の世界/国書刊行会』には「『女性美』から大陸への道程/戸田昌子」という論考が掲載されています)。他にも、野島康三、金丸重嶺、福田勝治など、女性を撮影した作品を多く残した写真家もいます。おそらく、1つの理由としては、この分野の写真は、戦後に比べると作品の質も量も劣るというとらえかたがあって、それゆえ、あまり今まで論じられてきていないのではないかと思います。しかし、かなりの量の作品も残っており、必ずしも質が低いとは言えないと思いますので、本格的に論じられていないのは、不思議な気がします。他方、戦前においても「女性を撮影した写真」というものは、いわゆる「芸術写真」「新興写真」「前衛写真」「報道写真」などよりも価値が低かったという可能性、それが理由であまり論じられていないという可能性もあります。この点は、現時点では、その可能性があるかどうか判断しかねる点で、検証が必要です。
さらに、この本では触れられていないこととして、「シュルレアリスム」の観点があります。堀野正雄は、シュルレアリスムの観点から取り上げられることはまずないと思いますが、この1936年発表の作品は、今から考えると、現実にこんなことが本当にあったのかという疑念、さらには非現実感を引き起こすと思います。これはまさに「シュルレアリスム」であり、むしろ「ガスマスクをつけた女学生」が日常風景だったとすれば、そこに潜む非現実性をとらえたという意味で、瀧口修造のいう「前衛写真」に該当するのではないでしょうか。確かに、もしも、現在の日本でこんな行進が行われたとしたら、テレビ番組かお笑いのしかけたいたずらか、一昔前の前衛演劇集団か前衛美術集団の「デモンストレーション」「イベント」「ハプニング」のたぐいだと思われるのではないかと思います。そういった、非日常性が日常の中に存在したというわけです。堀野は、そんなことをこの作品の意味に込めてはいなかったかもしれませんが、切り取られた日常を見る側が非日常的だと捉えるのであれば、正にアジェの写真と同じことがここに起きていることになります。
今回の作者は写真史の専門家ではないからやむを得ない面はありますので、どなたかがフォローをしていただけると、以上のようなことを書くだけで1冊の本になるでしょう。非常に面白い本ができると思うのですが、どなたかいかがでしょうか?
なお、この作者はむしろまんが原作者としても有名ですね。