遅ればせながら、「復刻保存版FRONT」I, II, III(2119)(2024/06/02)に続いて、次の復刻版のご紹介です。
『合本復刻版NIPPON』1・2・3
国書刊行会
各・本体価格38000円(税込)
第1集:第1号~第14号
https://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336077172/
発売日 2024/12/25
判型 B4判 ISBN 978-4-336-07717-2
ページ数 910 頁 Cコード 0000
第2集:第15号~第28号
https://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336077189/
発売日 2025/06/06
判型 B4判 ISBN 978-4-336-07718-9
ページ数 978 頁 Cコード 0000
第3集=2025年9月刊行予定
まだ情報が掲載されていません。
カタログも掲載されています。
https://www.kokusho.co.jp/catalog/9784336077172.pdf
「FRONT」と同様に、こちらも個人で購入するには高価すぎますが、購入し損ねていた公立図書館や研究機関には、積極的に購入していただきたいものです。。
ヒルマ・アフ・クリント展の会場にも掲げられていた「神殿のための絵画」一覧(全2期(1906-1908と1912-1915)、全193点)ですが、展覧会カタログのページを繰ってみても、掲載されていません。
おかしいなと思ってよくよく見てみると、今回の展覧会カタログには、他の展覧会カタログでもたまに見られる、「本のカバー状のもの」が付いています。実物をご覧になった方はお分かりだと思いますが、展覧会カタログよりも、上下が少し短いものです。
実は、その裏に、この一覧が掲載されています。
なぜ、わざわざ、こんな変則的なことをする必要があったのでしょうか? 非常に疑問を案じます。
これは、
・存在自体がわかりにくい(カバーを一旦展覧会カタログ本体から外さないと発見できない、見逃す人がいないとは限らない)
・ご存じのとおり、ほとんどの公立図書館では、通常、書籍の保護のため、本の外側にビニールを貼り付けることが多いが(とともに、もともと付いている函やカバーを破棄することも多い)、これに対して、今回のこの展覧会カタログのカバーの裏が見られるようにするために、いったいビニールをどう貼ることになるのかがわからない(不可能ではないが)
・サイズもA4やB4といったサイズではなく、変則的である(コピーをするとしたら、不便。さらに、美術館の図書室でのコピーでは、通常は、拡大縮小をすることができない)
などの問題があります。
「素直に」、本文中に含めていただきたかったところです。サイズ的に本文のページでは納められないというのであれば、美術書ではよく存在する「折り込み」という方法など、いくらでも方法は考えられたと思います。もし、カバー裏がどうしても必要ならば、それはそのまま残し、本文はそれと重複させて掲載するという方法もあります。
なお、同じ一覧が「芸術新潮」2025年4月号のアフ・クリントの特集にも掲載されていますが、企画に含まれていない作品(かなりの点数になる)や本文に掲載されている一部の作品の図版が掲載されておらず、かなり不完全な一覧となってしまっています。その理由は権利の関係だと思いますが、残念です。
「今後日本での開催を希望する20世紀前半の海外の写真家の展覧会」ととりあえずタイトルをつけてみました。しかし、昨年2024年くらいからは、我ながら言いますと、海外の写真家について追って行こうという「熱意」を失ってしまったように思います。この点については、必ずしも理由はよくわかりません。
それでも、その理由をあえて考えてみますと、今まではいろいろとこの場でも書いてきましたが、例え展覧会企画を希望しても、なかなか実現の可能性がないという点が大きいように思います。
また、少し昔になりますが、ヨーロッパに関しては、「The History of European Photography」(全3巻、各2冊で、全6冊)の刊行が大きいですね。ヨーロッパの写真については、この本で、網羅的に紹介されているので、当方のか細い知識の範囲では、それ以上付け加える必要がないように思えてくるのではないでしょうか?
アジアの写真についても、同様に20世紀全体をカバーするような企画や書籍の刊行を望んでいるのですが(No.1307. No.1308, No.1309で簡単に書きました)、書籍刊行も実現しそうにありません。展覧会企画であれば、地域展であれ個展であれ、アジアの写真(特に20世紀前半)については書籍よりもなおさら実現の可能性が低いようにも思います。
そうすると残るはアメリカ(南北両アメリカ)やオセアニアですが、さてどうでしょうか?
例えば、アルゼンチンのオラシオ・コッポラ(Horacio Coppola, 1906-2012)などを挙げることができるかもしれませんが、これも実現可能性は乏しいでしょうね。
オーストラリアやニュージーランドの写真(特に20世紀前半)についてなどは、日本にはほとんど情報がないと思いますので、当方などは写真家名すら挙げられない状態です。
そもそも、世の中がそういう、必ずしも「世界の10人」、「世界の20人」に入らないような(けれども、それなりに有名な)写真家の写真展企画を、あまり望んでいないのでしょう。他方、例えば、「マン・レイ展」ばかり繰り返し開催するというような世の中の状況に、うんざりというか辟易しているという感覚もあります。
そういった、なんやかや、なんだかんだで、「(20世紀前半の)海外の写真家の展覧会」への熱意は失われていったということでしょうか。
もはや日本人写真家に集中したほうがいい、ということかもしれません。20世紀前半の日本の写真や写真家についても、まだまだ抜け落ちている企画(過去には開催されたが、永らく開催されていない写真家の個展を含む)、新たに開催していただきたい企画など、挙げることが可能です。今後考えて行きましょう。
ゴールデン・ウィークで1週あいてしまいすみません。
さて、少し先ですが、次の展覧会が開催予定です。
野島康三と斎藤与里
2025.11.1 [土] - 2026.1.18 [日]
埼玉県立近代美術館
https://pref.spec.ed.jp/momas/2025nojima_yori
まだあまり詳しい情報が出ていませんので、今後の情報に期待します。個人的には好きな美術館であるものの、この美術館で、過去に20世紀前半の日本人写真家を大きく取り上げた企画はなかったように思います。その意味でも、期待しています。
新しい情報が出たら、またご紹介いたします。
No.2164で、アフ・クリントの作品が「抽象絵画第三の道(第3の道)」になりうるか、ということを少し書いていましたが、現時点での当方の考えは、ネガティブです。その理由は、主として次の2点です。
なお、最初に書いておきますが、このことは、アフ・クリントの作品が優れていないとか、それに価値がないということを全く意味しておりません。あくまでも、20世紀美術史、または、抽象絵画史の中で、彼女をどう位置づけるか、という問題です。
1.アフ・クリントの活動や作品が孤立していたこと。彼女のグループとその周辺にのみ知られており、国際的な活動でもなく、ヨーロッパの抽象絵画の動向に影響も与えなかった。逆に、海外における国際的な運動からも影響を受けなかった。それは、自分の作品を公開しないようにという、彼女自身の遺志とも関係します。
それゆえ、もしも、20世紀美術史の年表に、彼女の活動・作品を入れ込むとしても、それは「点」、ないしは、せいぜい時間軸に沿った「線」です。
2.他からの影響をほとんど受けなかったがために、抽象絵画として未成熟と言わざるを得ないこと。今回の展示作品の中にも多くありますが、明らかに具象的な内容が含まれている作品が多くあります。特に、花、葉などの植物、貝などの動物です。
例えば、「10の最大物 グループIV」というシリーズは、各作品に付けられたそのサブタイトルのとおり、人生の各時期を象徴的に示している作品です。それゆえか、かなり、具象のモチーフが含まれており、抽象化は見られるものの、「抽象絵画」の別の呼び方である「絶対象」とは言えないのではないかと思います。
そもそも基本に立ち返りますが、抽象絵画とは何か? それは、「意思」だと思います。
同じ「円」を描いていても、それを「太陽」と考えて描いているか、そのままの「円」と考えて描いているか。No.2149に書きましたように、何かを描こうとしているのではなく、抽象絵画を明確にめざしているか、「抽象への意思」があるか。
アフ・クリントに関しては、「抽象への意思」が不十分だったのではないか、少なくとも弱かったのではないか、と思っています。すなわち、最終的に「抽象」を目指していたのではなく、彼女が描きたかったテーマの中に抽象的なものを取り入れた、単なる表現の手段だったのではないか?
あとは、ご本人が生きていた当時、「抽象」またはこれに近い言葉、関連する言葉をどの程度使っていたのかを確認したいところです。しかし、不思議なことに、今回の各種資料では、その点については、ほとんど触れられていないようです。彼女の自身の言葉、執筆の論文や書籍の中に、これらの用語は残されていないのかを確認していただきたいところです。
ということで、現時点では、ヒルマ・アフ・クリントの作品は、抽象絵画の「第3の道」とはいえず、それとは別の独立したひと固まりの各品群だと受け止めています。