(つづき)
1960-1969
1960a 批評家ピエール・レスタニがパリで多様なアーティストを集めてヌーヴォー・レアリスムを組織し、コラージュ、れでぅメイド、モノクロームのパラダイムを定義しなおす。504
コラム:ネオ・アヴァンギャルド
1960b クレメント・グリーンバーグが「モダニズムの絵画」を発表する。彼の批評は方向性を改め、新しい装いをまとって60年代の様々な論争の形姿を決定する。
コラム:リオ・スタインバーグとフラットヘッド会画面
1960c ロイ・リクテンスタインとアンディ・ウォーホールが漫画と広告のイメージを絵画に使い始める。ジェイムズ・ローゼンクイスト、エド・ルーシェイらがそれに続き、アメリカン・ポップが生まれる。515
1961 12月、クレス・オルデンバーグがニューヨークのイーストヴィレッジに『ザ・ストア』を開く。これは「エンヴァイロメント」であり、周辺の安物を売る店の構えを真似ていて、置いてあるアイテムはすべて売り物だった。この冬と翌年の春、『ザ・ストア』を場とするオルデンバーグの〈光線銃シアター〉が10回にわたって異なるさまざまな「ハプニング」を上演する。520
1962a 西ドイツ、ヴィースバーデンにて、ジョージ・マチューナスが一連の国際イヴェントの第1回を組織し、フルクサス運動の結成をしるしづける。526
1962b ヴィーンでギュンター・ブルス、オットー・ミュール、ヘアマン・ニッチェらアーティストの一団が結集してヴィーン行為主義を結成する。534
1962c カミラ・グレイの『偉大な実験――ロシア芸術 1863-1922』の出版に刺激され、ヴラジミル・タトリンやアレクサンドル・ロトチェンコらの構成主義原理に対する関心が西側で息を吹き返し、ダン・フレイヴィン、カール・アンドレ、ソル・ルウィットら若手アーティストたちにより、さまざまに異なる方法で練り上げられる。540
コラム:『アートフォーラム』
1962d クレメント・グリーンバーグは初期ポップ・アートの抽象的側面を認めた最初の人物であり、この側面はポップ・アートの先導的唱道者や彼らのあとに従った者たちの作品に繰り返し特色として現れる。545
1963 ゲオルク・バゼリッツが、画家オイゲン・シェーネベックとともにふたつのマニフェストを発表したのち、ベルリンで『台無しになった大いなる夜』を展示する。551
1964a 7月20日、シュタウフェンベルクによるヒトラー暗殺未遂事件から20年目のこの日、ヨーゼフ・ボイスは架空の自伝を刊行する。また西ドイツのアーヘンでは、「新芸術のフェスティヴァル」において観衆による暴力を引き起こす。556
1964b アンディ・ウォーホールの『13人の最重要指名手配者』がニューヨーク万博の同州パヴィリオンのファサードに、ごく短いあいだ設置される。562
1965 ドナルド・ジャッドが「特定的な物体」を発表する。ミニマリズムがその主要な実践を担ったジャッドとロバート・モリスの手で理論化される。568
コラム:モーリス・メロル・ポンティ
1966a マルセル・デュシャンがフィラデルフィア美術館のインスタレーション『与えられたとせよ』を完成させる。没後にこの新作が公開されたことで、若手アーティストたちに対して強まりつつあった彼の影響力は絶頂に達する。572
1966b ニューヨークで「エクセントリック・アブストラクション」展が開催する。ルイーズ・ブルジョワ、エヴァ・ヘッセ、草間彌生らの作品はミニマリズムの彫刻言語に対する表現性に富んだオルタナティヴを指し示す。576
1967a ロバート・スミッソンが「ニュージャージー州パセーイクのモニュメント巡り」を発表。1960年代末のアート実践にとって生成的なコンセプトとして「エントロピー」をマークする。581
1967b イタリアの批評家ジェルマーノ・チェーラントが最初のアルテ・ポーヴェラ展を開催。585
1967c フランスのグループBMTPが最初の発表活動に際して公開絵画制作を行い、めいめいが特定の布置を選び、それを複数のキャンヴァスにそっくりそのまま繰り返して描く。独自のコンセプチュアリズム絵画である。戦後フランスで「公式」とされていたタイプの抽象に対しては以前から攻撃が仕掛けられていたが、その最新のもの。591
1968a 1960年代の最も先進的なヨーロッパとアメリカの美術にコミットしていた二つの主要な美術館――アイントホーフェンのファン・アッペ市立美術館とメンヒェングラートバッハのアプタイベルク美術館――がベアント&ヒラ・ベッヒャー夫妻の作品を展示し、ふたりをコンセプチュアル・アートと写真に対する関心の最前面に位置づける。597
1868b コンセプチュアル・アートがソル・ルウィット、ダン・グレアム、ローレンス・ウィーナーの出版物の中に発現し、セス・シーゲローブによって最初の展覧会が組織される。
コラム:アーティスト主宰の雑誌
コラム:脱スキル化
1969 ベルリンとロンドンでの「態度がかたちになるとき」展がポストミニマリズムの諸展開を概観する一方、ニューヨークでの「反イリュージョン――手続き/素材」展はプロセス・アートに焦点を合わせる。プロセス・アートの主要3側面をリチャード・セラ、ロバート・モリス、エヴァ・ヘッセが練り上げる。610
1970-1979
1970 マイケル・アッシャーが『ポモーナ大学プロジェクト』を設置。サイト-スペシフィックな作品が、モダニズムの彫刻とコンセプチュアル・アートのあいだにひとつのロジックの領野を開く。616
1971 ニューヨークのグッゲンハイム美術館がハンス・ハーケの展覧会を中止し、第6回グッゲンハイム国際展へのダニエル・ビュレンヌの参加を弾圧する。制度批判の実践がミニマリズム世代の抵抗に直面する。621
コラム:ミシェル・フーコー
1972a マルセル・ブロータースが西ドイツのデュッセルドルフに「近代美術館、鷲部門、図像セクション」を設置する。625
1972b 国際展ドクメンタ5が西ドイツのカッセルで開催され、ヨーロッパにおけるコンセプチュアル・アートの制度的受容をしるしづける。630
1972c 『ラスヴェガスから学ぶ』が刊行される。ラスヴェガスだけでなくポップ・アートからもインスピレーションを得た建築家ロバート・ヴェンチューリとデニース・スコット・ブラウンが、「あひる」つまり彫刻的形態としての建築を避けて「装飾された小屋」を擁護する。そこではポップな記号が前景化されて、ポストモダンのデザイン様式の語彙が準備された。636
1973 キッチン・センター・フォー・ヴィデオ・ミュージック・アンド・ダンスがニューヨークにスペースをオープンする。ヴィデオ・アートが視覚アートとパフォーマンス・アート、テレビと映画のあいだで、制度の中に一個の居場所を要求する。644
1974 クリス・バーデンがフォルクスワーゲン・ビートルに釘づけにされる『刺し貫かれて』において、米国におけるパフォーマンス・アートは肉体の現前という点でひとつの極限に達し、同じ傾向に従う多くのアーティストたちはこのような実践を断念したり、穏健化したり、あるいは別の形に転じさせたりする。649
1975a 映画作家のローラ・マルヴィが画期的試論「視覚的快楽とナラティヴ映画」を発表し、ジュディ・シカゴやメアリー・ケリーらフェミニズム・アーティストが女性表現についてさまざまに異なる立場を発展させる。654
コラム:理論誌
1975b イリヤ・カバコフがアルバム・シリーズ『十の人物』を完成させる。モスクワ・コンセプチュアリズムの重要なモニュメントである。660
1976 ニューヨークで、P.S.1がメトロポリタン美術館における「ツタンカーメン」展と時を同じくして開設される。制度=機関的構造の麺でアートワールドに生じていた重大なシフトが、オルタナティヴ・スペースとブロックバスター展覧会の両方によって記銘される。668
1977a 「ピクチャーズ」展が開催され、若手アーティストたちをひとつのグループとして同定する。アプロプリエイションやオリジナリティ批判といった彼らの戦略は、アートにおける「ポストモダニズム」の概念を提出する。672
1977b ハーモニーハモンドが新たに創刊された雑誌『ヘレシーズ』でフェミニズムの抽象を弁護する。676
(つづき)
1940-1944
1942a アメリカ・アヴァンギャルドの脱政治化が不回帰点に達し、クレメント・グリーンバーグと『パーティザン・リヴュー』誌の編集者たちはマルクス主義に別れを告げる。348
1942b 第二次世界大戦により多くのシュルレアリストがフランスから合衆国への移住を余儀なくされる中、ニューヨークで開催された二つの展覧会がそれぞれ異なる方法でこの亡命の状況に反省的思考をめぐらせる。353
コラム:亡命者たちと移民たち
コラム:ペギー・グッゲンハイム
1943 アフリカ系アメリカ人芸術に関する最初の学術的研究書、ジェイムズ・A・ポーター著『現代のニグロ芸術』がニューヨークで刊行。同地ではハーレム・ルネサンスとともに、人種を意識し文化的遺産を継承しようとする動きが高まっていた。358
1944a ピート・モンドリアンが死去。『ヴィクトリー・ブギウギ』が未完のまま残される。絵画を破壊という営みとして捉えるモンドリアンの見方の典型的に示す作品である。364
1944b 第二次世界大戦の勃発とともに、モダンアートの「オールドマスター」たち――マティス。ピカソ、ブラック、ボナール――は、野蛮に対する抵抗として、占領下のフランスを逃れることを拒否する。彼らが戦時中に発達させた様式はパリ解放後、新世代の芸術家たちにとって難関となる。369
座談会1 20世紀なかばにおける芸術 374
1945-1949
1945 デイヴィッド・スミスが『日曜日の記念柱』を創作する。構成による彫刻は伝統的な芸術の手わざという基盤と近代製造法の工業という基盤のはざまに留め置かれる。388
1946 ジャン・デュビュッフェが「厚塗り」を発表し、戦後フランス美術の中にスカトロジカルな傾向が存在することを確証する。この傾向はまもなく「アンフォルメル」と名づけられる。393
コラム:アール・ブリュット
1947a ラースロー・モホイ-ナジがシカゴで死去した1年前、ヨーゼフ・アルバ―スがノースカロライナ州のブラック・マウンテン・カレッジで「変種」絵画を開始する。バウハウスのモデルはアメリカへ紹介され、さまざまに異なる芸術的要請と制度的圧力によってそのかたちを変える。399
1947b ニューヨークで『ポシビリティーズ』誌が出版され、抽象表現主義が一個の運動としてのまとまりを獲得したことをしるしづける。404
1949a 『ライフ』誌が「彼は合衆国で最も偉大な存命画家か?」と読者に問いかける。ジャクソン・ポロックの作品は先進的芸術の象徴として浮上する。411
1949b コペンハーゲン、ブリュッセル、アムステルダムの若い芸術家が緩やかに結束したグループであるコブラがその名を冠した雑誌を創刊し、「生の根源」への回帰を訴える。一方、イングランドではニュー・ブルータリズムが戦後の緊縮条件に即した生のままの美学を提唱する。416
1950-1959
1951 バーネット・ニューマンの第2回展覧会が失敗に終わる。ニューマンは同僚たる抽象表現主義者たちからは村八分にされるが、のちにミニマリズムのアーティストたちに父親的存在として称揚されることになる。424
1953 作曲家ジョン・ケージがロバート・ラウシェンバーグの『タイヤ・プリント』制作に協力する。インデックス的押印が、ラウシェンバーグ。エルズワース・ケリー、サイ・トゥオンブリの作品の中で、表現としてのマークに対抗する武器として開発される。430
1955a 東京で初めての展覧会に際し、具体グループの作家たちはジャクソン・ポロックのドリップ絵画に新しい読みを提案する。伝統的な美学と関わり、「アクション・ペインティング」という言葉を字義通りな仕方で解釈してみせる読みである。435
1955b パリのギャルリー・ドニーズ・ルネにおける「運動」展がキネティシズムを発足させる。441
1956 英国ロンドンの『これが明日だ』展が、ポップ・アートの先駆者インデペンデント・グループが企てた戦後における芸術、科学、技術、プロダクト・デザイン、大衆文化の関係についての研究の到達点を示す。447
1957a ふたつの小さなアヴァンギャルド集団、レトリスト・インターナショナルとイマジニスト・バウハウスが合流してシチュアシオニスト・インターナショナルを結成する。戦後でいちばん積極的に政治参加した運動である。453
コラム:『スペクタクルの世界』から2テーゼ
1957b アド・ラインハートが『新たなアカデミーのための12のルール』を著す。絵画におけるアヴァンギャルドのパラダイムがヨーロッパにおいて再編成され、合衆国ではラインハート、ロバート・ライマン、アグネス・マーティンらその他により、モノクロームとグリッドが探求される。460
1958 ジャスパー・ジョーンズの『4つの顔のある標的』が『アートニューズ』誌の表紙に登場する。ジョーンズは、フランク・ステラのような一部のアーティストに対しては、図と地が融合し単一の〈イメージ・物体〉となった絵画のモデルを提示し、他のアーティストたちに対しては、日常的記号の使用と概念の曖昧さの使用の両方を解禁する。466
コラム:ルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン
1959a ルーチョ・フォンターナが初の個展を開催する。彼はキッチュを連想させることを通じて観念論的なモダニズムに疑問を呈し、この批判は秘蔵っ子マンゾーニに引き継がれる。473
1959b サンフランシスコ美術館でブルース・コナーが『子ども』を展示する。幼児椅子に座り手足を切断された人物像であり、死刑に抗議してつくられた作品である。西海岸でコナー、ウォレス・バーマン、エド・キーンホルツらによりアッサンブラージュとエンヴァイロメントが発達を遂げ、ニューヨークやパリ、あるいは他のどの場所と比べてもざらついた感触を呈する。477
1959c ニューヨーク近代美術館が「人間の新しいイメージ」展を開催する。アルベルト・ジャコメッティ、ジャン・デュビュッフェ、フランシス・ベイコン、ヴィレム・デ・クーニングらの作品において、実存主義美学は冷戦期具象の政治へと延長される。483
コラム:芸術と冷戦
1959d リチャード・アヴェドンの『オブザヴェイション』とロバート・フランク『アメリカ人』がニューヨーク派の写真と弁証法的な規定要因を確立する。488
1959e 〈新具体主義芸術宣言〉がリオ・デ・ジャネイロで、日刊紙『ブラジル日報』に見開きで掲載され、当時支配的だった合理主義的な幾何学的抽象解釈に代えて現象学的解釈を導入する。494
(つづき)
1920-1929
1920 ダダ見本市がベルリンで開かれる。アヴァンギャルド文化と伝統文化との二極化が芸術実践の政治化をもたらし、新しい媒体としてのフォトモンタージュが誕生する。186
1921a 第一次大戦後、モダニズムを支配した様式である〈綜合的〉キュビスムを展開していくにあたり、ピカソは『三人の楽士』でニコラ・プッサンの古典主義を徴用する。192
コラム:ボヘミア生活の諸情景
1921b モスクワ〈芸術文化研究所〉のメンバーが、新たな集団的社会の求めに応答する論理的実践として構成主義を定義する。198
コラム:ソヴィエトの諸機関
1922 ハンス・プリンツホルンが『精神疾患患者の芸術性』を出版する。パウル・クレーとマックス・エルンストは作品の中で『「狂人」の芸術』を探求する。204
1923 20世紀に最も影響力を持ったモダニズムの芸術とデザインの学校であるバウハウスが、ドイツ・ヴァイマールで初めての一般展示会を開く。209
1924 アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム革命』第1号を刊行し、シュルレアリスムの美学のための用語を確立する。214
コラム:シュルレアリスムの雑誌
1925a パリのアール・デコ博覧会が現代版キッチュの誕生を告げるかたわら、ル・コルビュジェの機械美学はモダニズムの悪夢となり。アレクサンドル・ロトチェンコの〈労働者クラブ〉は人間とモノとの新たな関係を唱道する。220
コラム:ブラック・デコ
1925b キュレーターのグルタフ・F・ハルトラウプが、ノイエ・ザッハリッヒカイト絵画の最初の展覧会をカールスルーエとマンハイムで組織する。秩序への回帰に属する国際的諸傾向の一変種である。この新たな「魔術的リアリズム」がドイツにおける表現主義ならびにダダの諸実践の終焉を告げる。226
1925c オスカー・シュレンマーが『バウハウスの舞台』を発表し、マネキンとアウトマトンを近代的なパフォーマンスのモデルとして提示する。また他の者、とくにダダ運動に関わった女性芸術家たちが、人形や操り人形の孕み持つ寓意としての可能性を探求する。232
1925d 5月3日、ベルリンで「絶対映画」と題するアヴァンギャルド映画の公開上映会が開かれる。プログラムには、抽象というプロジェクトをフィルムという手段で継続するハンス・リヒター、ヴィキング・エッゲリング、ヴァルター・ルットマン、フェルナン・レジェらの実験作品が含まれている。238
1926 エリ・リシツキイの『デモンストレーション・ルーム』とクルト・シュヴィッタースの『メルツバウ』がドイツのハノーファーに設置される。アーカイヴとしての美術館建築とメランコリアとしてのモダニズム空間のアレゴリーが、弁証法を成すものとして、構成主義者とダダイストによって構想される。244
1927a ブリュッセルで商業美術家として働いていたルネ・マグリットがパリのシュルレアリスム運動に参加する。パリでの彼の作品は、広告の表現形式や、言語と表象の多義性をたくみに利用する。248
1927b コンスタンティン・ブランクーシが『新生児』をステンレスで鋳造する。彼の彫刻は高級芸術というモデルと工業生産というモデルのあいだの戦いを引き起こし、これは『空間の鳥』をめぐって米国で行われた裁判で頂点に達する。252
1927c チャールズ・シーラーがフォード社に、リヴァー・ルージュの新自社工場のドキュメントを委嘱される。北米のモダニストたちが、機械時代との間に叙情的な関係を発展させ、ジョージア・オキーフはそれを自然界にまで拡張する。256
コラム:MoMAとアルフレッド・バー・ジュニア
1928a ヴワディスワフ・スツシェミンスキが「絵画におけるウニズム」を、つづけて1931年にはカタルヅナ・コブロと共同で彫刻論の書『空間のコンポジション』を公刊し、構成主義国際化の頂点をしるしづける。262
1928b ヤン・チヒョルト著『新しいタイポグラフィ』が刊行され、ソヴィエト・アヴァンギャルドの生産が西欧資本主義諸国の書籍デザインと広告に及ぼした影響を確証し、ひとつのインターナショナル・スタイルの出現を批准する。268
1929 ドイツ工作連盟によって企画され、シュトゥットガルトで5月18日から7月7日にかけて開催された「映画と写真」展が、国際的な写真実践と写真論争の拡がりを展示する。同展は20世紀写真中ひとつのクライマックスを画定し、この媒体の新たな批評理論と歴史記述の出現をしるしづける。274
1930-1939
1930a 1920,30年代のヴァイマール・ドイツにおける大衆消費・ファッション雑誌の導入が写真イメージの生産と流通配布のための新たな枠組みを生み出し、一群の重要な女性写真家たちの登場を助けることになる。282
1930b ジョルジュ・バタイユが『ドキュマン』誌上で『未開美術』を書評、プリミティヴィズムに関わるアヴァンギャルド内部のずれ、そしてシュルレアリスム内部の深い亀裂を明るみに出す。287
コラム:カール・アインシュタイン
1931a アルベルト・ジャコメッティ、サルバドール・ダリ、アンドレ・ブルトンが「象徴的機能を持ったオブジェ」に関する文章を雑誌『革命に奉仕するシュルレアリスム』に発表する。シュルレアリスムがそのフェティシズムと幻想の美学をオブジェ制作の領域にまで拡大する。292
1931b ジョアン・ミロが「絵画を殺戮」するという誓いを新たにし、アレクサンダー・コールダーが繊細な作りのモビールから鈍重なスタビルへと彫刻の作風を変える。ヨーロッパの絵画と彫刻は、ジョルジュ・バタイユのいう「無形」という概念を反映した新しい感覚を表しはじめる。297
1933 ロックフェラー・センターの壁画にディエゴ・リベラが描きこんだレーニンの肖像をめぐってスキャンダルが巻き起きる。メキシコ壁画運動はアメリカの各所で公共の政治的壁画作品を創り出し、合衆国の政治的アヴァンギャルドにとっての先例を確立する。303
1934a 第1回作家同盟会議において、アンドレイ・ジダーノフはソビエト社会主義リアリズムのドクトリンを発表する。306
1934b ヘンリー・ムーアが「彫刻家の目的」の中で、具象と抽象、シュルレアリスムと構成主義のあいだを媒介する。英国流直彫りの美学を明確に打ち出す。314
1935 ヴァルター・ベンヤミンが『技術的複製可能性の時代の芸術作品』の草稿を執筆し、アンドレ・マルローが「想像の美術館」を開始し、マルセル・デュシャンが『トランク型ボックス』に着手する。写真を介して芸術内部へと表面化してきた機械的複製のインパクトが、美の理論、美術史、そして芸術の実践において実感される。319
1936 フランクリン・D・ルーズヴェルトのニューディール政策の一環として、ウォーカー・エヴァンズ、ドロシア・ラングを始めとする写真家たちが、大恐慌にみまわれたアメリカの田舎をドキュメントすることを委嘱される。324
コラム:雇用促進局(WPA)
1937a パリ万国博覧会において、欧州列強が自国の芸術・商業の顕彰とプロパガンダを目的としたパヴィリオンを建設し競い合う一方、ナチスはミュンヘンでモダニズム芸術を糾弾する大規模な『退廃「芸術」』展を開催する。329
1937b ナウム・ガボ、ベン・ニコルソン、レズリー・マーティンがロンドンで『サークル』を刊行、幾何学的抽象の制度化を強固なものとする。334
1937c パブロ・ピカソがパリ万国博覧会スペイン共和国パヴィリオンにて『ゲルニカ』を公開する。338
No.1826で、刊行されることだけご紹介していた『図鑑1900年以降の芸術』ですが(とともに、No.1842で写真について少々)、目次すらご紹介できていなかったので、ここでご紹介いたします。
この本の目次は、各項目名が長いという特別なものとなっています。
長くなりますが、せっかくですので、20世紀前半だけでなく、20世紀後半も含めた全体をご紹介いたします。
目次
ART SINCE 1900 刊行にあたって 3
本書の使い方 12
まえがき――読者のためのガイド 14
Introductuins 16
1 モダニズムにおける精神分析、方法としての精神分析 17
2 芸術の社会性――モデルとコンセプト 24
3 フォーマリズムと構造主義 34
4 ポスト構造主義と脱構築 42
5 グローバル化、ネットワーク、形式としてのアグリゲイト 51
1900-1909
1900a ジークムント・フロイトが『夢解釈』を出版する。ヴィーンでは、グスタフ・クリムト、エゴン・シ-レ、オスカー・ココシュカによる表現主義芸術の台頭が、精神分析学の登場と軌を一にする。64
1900b アンリ・マティスがオーギュスト・ロダンをパリのアトリエに訪れるが、この先輩芸術家の彫刻様式を取り入れることは拒む。69
1903 ポール・ゴーギャンが南太平洋上のマルキーズ諸島で生涯を閉じる。ゴーギャンにおける部族芸術の採用とプリミティヴィズムの幻想は、アンドレ。ドラン、アンリ・マティス、パブロ・ピカソ、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーに影響を与える。76
コラム:エキゾチックなものと素朴なもの
1906 ポール・セザンヌが南仏エクス・アン・プロヴァンスで没する。前年のフィンセント・ファン・ゴッホとジョルジュ・スーラの回顧展開催に続くセザンヌの死とともにポスト印象主義は歴史的過去となり、フォーヴィすむがその後継ぎの役を割り振られる。82
コラム:ロジャー・フライとブルームズベリー・グループ
1907 『アヴィニョンの娘たち』の一貫性を欠いた様式とプリミティヴィズム的衝動とをもってピカソは、模倣的表象=再現に対し前代未聞の恐るべき攻撃を仕掛ける。90
コラム:ガートルード・スタイン
1908 ヴィルヘルム・ヴォリンガーが『抽象と感情移入』を出版し、抽象芸術と再現芸術を、世界からの逃避と世界への関与として対比させる。ドイツ表現主義とイギリスのヴォーティシズムは、この両極の心理を独自の方法で探求する。97
1909 F・T・マリネッティが未来主義の最初の宣言を、パリの『ル・フィガロ』一面で発表する。アヴァンギャルドは初めてメディア文化とつながり、歴史と伝統に反抗する位置に立った。102
コラム:エドワード・マイブリッジとエティエンヌ・ジュール・マレー
1910-1919
1910 アンリ・マティスの『ダンスII』と『音楽』がパリのサロン・ドトンヌで断罪される。この2点においてマティスは自分の考える「装飾的なもの」を極限まで押し進め、拡張する色彩の視覚フィールドを創り出す。このフィールドは、〈見据える〉という行為に困難を突きつける。112
1911 パブロ・ピカソがパリのルーヴル美術館から「借りて」いたイベリア半島の石頭像2点を返却する(実は同館からの盗品であった)。ピカソは自身のプリミティヴィズム様式を変容させ、ジョルジュ・ブラックとともに分析的キュビスムを発展させはじめる。
コラム:ギョーム・アポリネール
1912 キュビスムのコラージュが創出される。その周囲ではさまざまな状況や事件――象徴主義詩は衰えることのない霊感源でありつづけ、大衆文化は高まりを見せ、社会主義者はバルカン半島での戦争に対し抗議活動を展開する――がたがいに衝突しあう。124
1913 ベルリンにおいて、ロベール・ドローネーは『窓』の連作を発表する。抽象の理論的枠組みと問題が汎ヨーロッパ的に練り上げられる。130
1914 ヴラジミル・タトリンは構成主義を発展させ、マルセル・デュシャンはレディメイドを提案する。前者はキュビスムからの変容を、後者はキュビスムとの断絶を告げる。そうするなかで彼らは、伝統的な芸術媒体に対し、相互補完的な2種の批判を呈示する。137
コラム:「ポー・ド・ウルス」
1915 カジミル・マレーヴィチはペトログラードでの「0.10」展でスプレマティズム絵画を公開し、かくしてロシア・フォルマリズムの考える美術と文学とを同一線上に置く。142
1916a 第一次世界大戦という破局と、未来主義・表現主義の挑発的な姿勢への二重の反動としてチューリッヒで国際的なダダの運動が始まる。147
コラム:ダダの雑誌
1916b アルフレッド・スティーグリッツの雑誌『カメラ・ワーク』の紙面にポール・ストランドが登場する。米国のアヴァンギャルドは、写真と諸芸術の複雑な関係性の周囲で自己形成する。154
コラム:アーモリー・ショー
1917a 2年間に及ぶ集中的な探求のはてにピート・モンドリアンは抽象へと突き抜け、続いて新造形主義を創始する。160
1917b 1917年10月、オランダの小都市ライデンでテオ・ファン・ドゥースブルフが雑誌『デ・ステイル』を創刊する。1922年までは月刊、そのあとは不定期刊。最終号は1932年、ファン・ドゥースブルフがスイスの療養所で亡くなったあとまもなく、彼へのオマージュとして出版される。166
1918 マルセル・デュシャンが『tu m'』を描く。彼にとって最後の絵画となるこの作品は、制作活動において試みてきた新機軸の数々、たとえば偶然の使用、レディメイドの提唱、写真の「インデックス」という地位などを要約している。172
コラム:ローズ・セラヴィ
1919 パブロ・ピカソがパリでは13年ぶりとなる個展を開催する。作品にはパスティーシュが姿を見せており、同じ時期にモダニズムへの反動が拡大していく。178
コラム:セルゲイ・ジャーギレフとバレエ・リュス
コラム:秩序への回帰
No.1942で掲載作家をご紹介した『世界の美術家』について、今回はコメントを。
とにかく、20世紀前半についてたったの30名。いくらなんでも少ない、という感じです。
類書で見ると、『世界美術家大全』は20世紀前半だけで128名。20世紀に限定した本ですが、『20世紀の美術家500』は仮に20世紀前半と後半で半分半分だとすると、20世紀前半だけで250名(ただし1人当たり1ページ1作品で解説もほとんどない)。
対象期間を長く設定する場合には、1冊の本で多くの美術家を収録するということにはどうしても無理があります。
ただ、個人的には、20世紀前半だけで1000名は欲しい。そんな本を希望します。「紙」で無理ならば、電子書籍で。
また、この本は、「美術家」に集中しすぎていて、イズムごとの解説もほとんどありません。例えば、モディリアーニのページに「未来派」の小さな説明欄が入っていますが、文脈から考えてもこれには無理があります。20世紀前半に限っていえば、この時代は「イズムの時代」なので、イズムに言及しなかったことは失敗と言わざるを得ません。
ちなみに、デ・キリコも全く出てこないですし、写真家も一切出てこない。とても残念です。
ところで、不思議なことに、この本の中には執筆者の名前が掲載されていません。掲載されていないのだから、それで仕方ありませんが、いったいどういう意味なんでしょうか? 出版社の編集部で執筆した、という意味なのでしょうか? いずれにしても、執筆者の名前を明らかにしようという意図がなかったということでしょう。
なお、訳者の名前はありました。定木大介、吉田旬子。その他は以下のとおり。
編集協力:株式会社リリーフ・システムズ
装丁:斎藤伸二
校正:株式会社麦秋アートセンター
編集:天野潤平+近藤純
最後に、作家名の欧文つづりが掲載されていませんが、もはや、インターネットでいくらでも欧文つづりを調べられる時代になりましたし、この本のような30名レベルであれば、そもそも日本語の情報があふれていますので、欧文つづりが掲載されていないことへの批判は、少なくともこの本に関しては、もういいと思っています。