木村専一展(1896)の続きになりますが、「日本の前衛写真展(戦前篇)」の企画をお願いします。
No.1896で、当時の座談会で、瀧口修造が関西の写真家にかみついているというようなことを書きましたが、それ以外の座談会も、『コレクション・日本シュールレアリスム3 シュールレアリスムの写真と批評』(竹葉丈・編、和田博文・監修、本の友社、2001年、本体12000円+税)で、ちらちらと読んでいます。なお、この本は、1930年代1940年代にかけて(中心は、1938年、1939年、1940年)の雑誌記事を中心に複製した資料集で、竹葉さんが当時の資料を渉猟した跡がうかがわれる恐るべき本で、かつ、とても便利な本です。
座談会の内容的には、関西の浪華、丹平、アヴァンギャルド造影集団といったグループのメンバーが、様々な技巧を凝らした作品を発表し、関東の写真家たちを閉口させたり、逆に、瀧口修造が関西の写真家たちを攻撃したりと、関西と関東の温度差を感じられます。
非常に簡単にまとめると、関西側は、「形式・様式」「表現」「技術」(ソラリゼーション、フォトグラム、フォトモンタージュなど)を前面に押し出し、とにかくアマチュア的な自由さで、他方、場合によってはあまり時間もかけずに、「楽しさ・面白さ・新しさ・風変りさ」で作品を次々と打ち出してくる。これに対して、関東側は、特に前衛写真協会が、「技巧に走っている」「主観的」「タイトルを含めて意味がわからない、わかりにくい」「思想・イデオロギーがない(作品に理由や意味がない)」「道楽でやっている」といった批判をする。これでは、議論がかみ合わないこと甚だしい。この違いが明らかであるのに、この議論のかみ合わなさを何とかしようとする動きもない、まあ、解決しようもなかったのかもしれませんが。
また、個人的に大いに不満なのは、総論的には、以上なのですが、個別の作品への関東側の批判になると、きわめて抽象的になり、しかも、前衛写真協会のメンバーの中でも、意見が一致しておらず、さて、ではどういう作品にすればいいのかということが示されていない、ということです。これはダメと批判することは簡単で、ではどうすればいいのかということが完全に欠落している。そして、それは、第二次世界大戦のために、永久に補われることがなくなってしまったわけです。
なお。関西側からは、アマチュアリズムを擁護する反論はありますが、関東(前衛写真協会)の個別の作品に対する批判のようなものはありません。自分たちも自由にやっているのですから、他人が自由にやっていることに批判も何もないのではないかもしれません。しかし、「前衛写真座談会」(出席者は後掲)では、前衛写真協会の作品も俎上に挙げたらよかったのではないかと思います。
以上を受け、今後希望する企画は、「新興写真」に次ぐ「前衛写真とはなんだったのか」を探る企画です。関西と関東をどう融合・統合させるか、どう止揚するか、全く別々な傾向として整理するのか、共通点を見つけ出すのか、とにかく、現存プリントのみならず、雑誌からの複製作品も含めて、すべてを机の上にいったん挙げてみようではないか、そういう企画を望みます。中断し再開することのなかった議論を、いまここで結論までもっていくという気持ちで。
ちなみに、東京(関東)では、前衛写真協会以外に、前衛的な動きはなかったのでしょうか? この竹葉さんの本にも前衛写真協会以外の関東での記事がほとんどないので、おそらくないんでしょうね。そうだとしたら、それは何故なのでしょうか? 何故、関西ばかり突出していたのでしょうか? それとも、この本その他の資料で、その部分ばかりを紹介しているから突出しているように見えるだけで、実は関西でもごく一部の動きに過ぎなかったという可能性もあります。そのような点の検証・分析もお願いしたいところです。
なお、『コレクション・日本シュールレアリスム3 シュールレアリスムの写真と批評』ですが、この本でしか見られない(というか、当時の雑誌にしか掲載されていない)写真図版もかなり多いので、貴重です。ただし、図版は探しにくいの困ります。図版索引があればよかったのでしょうが、贅沢な希望ですかね。また、複製した雑誌に掲載されていない図版も、「参考」として、もう少し掲載していただきたかったと思います。小石清の『初夏神経』『半世界』はあるのですが。
あと、印象ですが、中山岩太、安井仲治の記事がほとんどありません。活躍はしていたが、雑誌等における発言が限られていたということでしょうか。、
なお、面白いと思うのは、フォトタイムス1938年9月号に、次の2つの座談会が併せて掲載されていることですね。かなり重複感があるのですが、雑誌側としては、どういう意図だったんでしょうか? 単純に、東京側メンバーの都合が合わなくて、あるいは人数が多すぎて、2日に分かれてしまったということなのでしょうか?
「前衛写真座談会」(出席者(順不同):瀧口修造(前衛写真協会々員)、阿部芳文(前衛写真協会々員)、永田一脩(前衛写真協会々員)、村野四郎、福澤一郎、澁谷龍吉、今井滋(前衛写真協会々員)、小石清、花和銀吾、坂田稔、樽井芳雄、今井清、服部義文、奈良原弘、田村榮、15名)
「浪華写真展座談会」(出席者(イロハ順):板垣鷹穂、花和銀吾、服部義文、西山清、樽井芳雄、田村榮、奈良原弘、小石清、坂田稔、齋藤鵠兒、森芳太郎、11名)
また、これに加えて、同じ号に、次の前衛写真協会会員による無記名批判会も掲載されています。
「丹平写真展を見る」(N氏、T氏、H氏、S氏、A氏、I氏、6名)
メンバーはおそらく、
N:永田一脩
T:瀧口修造
H:濱谷浩
S:柴田隆二
A:阿部芳文
I:今井滋
ではないでしょうか?
なお、1941年に、治安維持法違反容疑で特高に逮捕されたのは福沢一郎と瀧口修造の2人ですが、この2人とも、上記「前衛写真座談会」に出席していたというのは、恐ろしいことです。そして、その座談会の関西側の出席者からは逮捕者が全く出ていないのは、もちろん偶然ではないでしょう。この点についても、様々なことを議論できるように思います。
『コレクション・日本シュールレアリスム3 シュールレアリスムの写真と批評』掲載の資料も、1941年になると、掲載記事が激減します(わずか2点。うち1点は、安井仲治のあの講演「写真の発達とその芸術的諸相」)。そして、1942年は山本悍右の記事1点のみで、1943年以降は掲載記事はありません。