かつて「アトリエ」(Aterier)という雑誌がありましたが、その中で、戦前に刊行された有名な号に1937年6月号(14巻6号)の「前衛絵画の研究と批判」という特集号があります。
この特集号の内容については、いろいろと書きたいところですが、今回は、写真図版が掲載されている写真家、森二良(もりじろう)についてのみ。
この号には、海外の画家の絵画作品図版が多数掲載されています(日本人では絵画では岡本太郎のみ)。図版の最後の部分には、写真作品の図版も掲載されていて、その作家は以下のとおり。
マン・レイ・7点
瑛九・3点
森二良・2点
フラツセ・1点
北尾淳一郎・1点
なぜ、これらの写真家が選ばれているのか? マン・レイは有名だったということかもしれませんが、他はどうでしょうか? 北尾淳一郎という選択も何が理由なのでしょうか?
実は、この雑誌のどこかに、掲載されている図版についての解説があるのかもしれませんが、手許にこの雑誌があるわけではないので、確認ができません。容易に見られるように、この雑誌の全体を複製して、書籍として刊行していただきたいところです。雑誌記事の「複製刊行」という例は実際ありますので、まったく不可能ということでもないと思います。複製刊行に値するくらいの重要性があると思います。残念ながらアトリエのこの号(というか戦前の号)は国立国会図書館には所蔵されていませんので、先にご紹介した「国立国会図書館デジタルコレクション」では見ることはできません。なお、すでにこの号の複製が存在するのであれば、それを教えていただきたいところです。
さて、作家を見てみますと、まず、「フラツセ」というのが誰かわかりません。カタカナ表記が戦前のものなので、間違っている(現在の通常の記載方法とは異なる)可能性もあります。間違いをおそれずにアルファベットにすれば「Frasse」でしょうか? スウェーデン系の名前でしょうか? 検索をいろいろとしてみましたが、よくわかりませんでした。
そして、森二良という人の名前も初耳です。幸い、図版が掲載されているページに経歴が記載されています。以下のとおりです(旧字は新字体に変更しました)。
森二良氏 1928年アメリカに遊学、ニコラス・ミライ(写真
家)に学ぶ後。巴里に渡り、プランタン、ヌーボー等の百貨
店に勤務、更に独逸に行きノートルダム附近に工房を設立・
1935年以降巴里に於ける諸雑誌の口絵制作に当たり、超現実
風の写真を発表している。 32才
「ニコラス・ミライ」というのは、Nickolas Muray(1892-1965)のことのようです。
当たり前ですが、この経歴では、森二良さんが、その後、どう活躍なさったのかはわかりません。
この写真家のお名前を耳にしたこともなかったので(経歴が図版に部分に記載されているということは、おそらく、この当時知名度はあまりなかったということを示しているのでしょう)、あまり期待せずにネット検索してみたところ、驚いたことにかなり詳細な情報が見つかりました。別名・森亮介。明治38年(1905年)5月17日~昭和63年(1988年)5月30日。
https://shashinshi.biz/archives/2865
https://kokeshiwiki.com/?p=7872
何と、こけし店である「たつみ」という店の店主に転身し、こけしの普及に非常に大きく貢献したということです。なお、この店「たつみ」は、ご本人が没した時点では東京都あきる野市にありましたが、現在はもう閉店しているとのことです。
最初「こけし」の文脈で「森二良」という名前が出てきたのを見たときは、同名別人だと勝手に思い込んでしまいました。軽率に思い込んだことについて、深く反省せねばなりません。
また、次の本で森二良について紹介されているとのことですが、写真家としての活躍については、「こけし以前」の経歴として簡単に触れられているのに過ぎないのではないか、と思います。図書館で広く所蔵されているという本ではなさそうですが、探してみるようにします。
佐藤光良/技の手紙 森亮介のこけし追及/みずち書房/1986
おそらく写真家をやめて、こけし販売に情熱を傾けたおかげで、本まで刊行されることになったということなのではないでしょうか。逆に言えば、個人的には皮肉に感じますが、写真家を続けていたら、そうはならなかったのではないか、と。「転身」は正解だったということでしょう。
最後に、アトリエのこの号の目次ですが、図版の一覧も掲載されていますが、正確ではありません。目次には、森二良も北尾淳一郎もフラッセも名前がありません。そういうことがあるから、過去の雑誌の目次の正確性にも要注意です。
以下、アトリエの目次のページと森二良の図版のページのpdfファイルをリンクしておきます。