少し前の話になりますが、写真史家の金子隆一さんがお亡くなりになりました。
金子さんがおられなかったら、日本写真史の研究や紹介は、現在の地点までまだまだ達していなかったでしょう。日本写真史研究の巨人と呼んでも大げさではありません。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
金子 隆一(かねこ りゅういち、1948年5月18日- 2021年6月30日)
ところで、お亡くなりになって間もないのに大変不謹慎な話で申し訳ありませんが、金子さんがお持ちだった大量の写真集や写真関係資料は、東京都への寄託にでもなるのでしょうか?
またもやすごい本が刊行されています
ベトナム近代美術史:フランス支配下の半世紀
二村 淳子
原書房
2021/6/30
税込5500円
対象は、1887年から1945年まで。500ページもある本だそうです。
早く実物を見て見たいものです。
なお、著者の二村淳子(にむら じゅんこ)さんは、白百合女子大学文学部准教授で、フランスの文化、芸術、言語など幅広く研究をなさっているようです。
(つづき)
目次は以上です。目次は130項目(1900-1909:7、1910-1919:12、1920-1929:17、1930-1939:12、1940-1944:5、1945-1949:6、1950-1959:13、1960-1969:20、1970-1979:12、1980-1989:7、1990-1999:8、2000-2015:11)、コラムは41項目です。
その他のクレジットを、以下記します。
ハル・フォスター:Hal Foster
ロザリンド・E・クラウス:Rosalind E. Krauss
イヴ・アラン・ボア:Yve-Alain Bois
ベンジャミン・H・D・ブークロー:Benjamin H. D. Buchloh
甲斐義明 筧菜奈子 金井直 新藤淳 平芳幸弘 福元崇志 本田晃子
デイヴィッド・ジョーズリット:David Joselit
編集委員 尾﨑信一郎 金井直 小西信之 近藤学
翻訳者 天内大樹 荒木晋也 石崎尚 磯谷有亮 井上康彦 尾﨑信一郎 甲斐義明 筧菜奈子 金井直 小西信之 近藤学 新藤淳 筒井宏樹 野田吉郎 林卓行 平芳幸浩 福元崇志 藤原貞朗 本田晃子 山本さつき 吉田侑李
協力委員 平芳幸浩
協力 江崎聡子 新津厚子
デザイン・組版 金子裕(東京書籍AD) 川端俊弘(WOOD HOUSE DESIGN)
編集協力 今野綾花 小池彩恵子 柴原瑛美
翻訳体制について
編集委員と担当領域(各原著者執筆部分に対応)/領域の翻訳者は以下のとおり(五十音順)。各項目の翻訳者は項目本文末に、原著者イニシャルに続けて表示した。
尾﨑信一郎(ハル・フォスター:HF)/
天内大樹 荒木晋也 石崎尚 磯谷有亮 尾﨑信一郎 甲斐義明 近藤学 野田吉郎 藤原貞朗 吉田侑李
小西信之(ロザリンド・E・クラウス:RK)/
井上康彦 甲斐義明 小西信之 近藤学 筒井宏樹 林卓行 山本さつき
近藤学(イヴ・アラン・ボア:YAB)/
尾﨑信一郎 近藤学
金井直 平芳幸浩[協力委員](ベンジャミン・H・D・ブークロー:BB)/
甲斐義明 筧菜奈子 金井直 新藤淳 平芳幸弘 福元崇志 本田晃子
近藤学(デイヴィッド・ジョーズリット:DJ)/近藤学
※AD名義の項目は近藤学が担当した。協力:江崎聡子
コラム、座談会、用語集は近藤学が担当した。
以上です。
もちろん目次だけではたいした価値はないとは思いますが、先へ進むための手掛かりにはなりますので、この程度の情報はネット上ですぐに入手でき、さらにテキストのコピーが簡単にできる状態にしていただきたいところです。そのような対応をすべきなのは出版社なのか版元なのかネット書店系なのか、はたまた図書館系なのか。正直、ネット上の情報の少なさ、またアクセスの悪さに呆れます。
(つづき)
1980-1989
1980 メトロ・ピクチャーズがニューヨークでオープンする。一群の新しいギャラリーが登場し、写真イメージや、ニュース、広告、ファッションでの写真の使用法を問うことに関わる若いアーティストたちを展示する。688
コラム:ジャン・ボードリヤール
1984a ヴィクター・バーギンが「現前性の不在――コンセプチュアリズムとポストモダニズム」と題した講演を行う。この講演の他、アラン・セクーラとマーサ・ロスラーの論考の出版が、英米フォトコンセプチュアリズムの遺産や。写真史と写真理論を書くことに対する、新たなアプローチを告知する。692
1984b フレドリック・ジェイムスンが「ポストモダニズムあるいは後期資本主義の文化的ロジック」を出版する。これと並行してポストモダニズムをめぐる論争がアートと建築を越えて文化政治へと延長され、ふたつ相反する立場に分かれる。698
コラム:カルチュラル・スタディーズ
1986 「終盤戦――近年の絵画と彫刻における参照とシミュレーション」がボストンで開かれる。一部のアーティストたちは商品と彫刻との境界が消失した事態と戯れ、他のアーティストたちはデザインとディスプレイの新たな台頭を強調する。702
1987 〈ACT-UP〉の最初のアクションが仕掛けられる。アートにおけるアクティヴィズムがエイズ危機によって再燃し、コラボレーション的グループが結成され、政治への介入が前面に出て、新たな種類のクイア美学が開発される。707
コラム:米アート戦争
1988 ゲアハルト・リヒターが『1977年10月18日』を描く。ドイツのアーティストたちは歴史画を更新する可能性について熟慮する。714
コラム:ユルゲン・ハーバーマス
1989 複数の大陸からアートを選抜した「大地の魔術師」展がパリで開催される。ポストコロニアル言説と多文化主義論争が現代アートの制作と提示の両方に影響を及ぼす。719
コラム:アボリジニ・アート
1990-1999
1992 フレッド・ウィルソンがボルティモアで『ミュージアムを採掘する』を呈示する。制度批判はミュージアムの枠を超え、幅広いアーティストたちが、フィールドワークに基づく人類学的なプロジェクトというモデルを適用する。726
コラム:領域横断性
1993a マーティン・ジェイが『うつむく眼』を出版、現代哲学における視覚の権威剝奪を概観した。このような視覚の批判は、多数のアーティストによって探求されている。732
1993b ロンドン東部のテラスハウスを型取りしたレイチェル・ホワイトリードの『家』が撤去され、創発的な女性アーティストの一集団が英国で台頭する。737
1993c アフリカ系アメリカ人アーティストたちによる新形式の政治化したアートが浮上する中で、ニューヨークではホイットニー・ビエンナーレがアイデンティティに焦点を合わせた作品を前景化させる。741
1994a マイク・ケリーにミッドキャリア点が、退行とアブジェクションという状態への関心の広がりを浮き上がらせる一方で、ロバート・ゴーバーやキキ・スミスらは壊れた身体という形象を用いてセクシュアリティと死の問題に取り組む。
1994b ウィリアム・ケントリッジが『流浪のフィリックス』を完成させ、レイモンド・ペティボーンらと並んで、ドローイングがふたたび重要性を獲得したことを例証する。752
1997 サントゥ・モフォケンが『ザ・ブラック・フォト・アルバム/ルック・アット・ミー 1890-1950』を第2階ヨハネスブルフ・ビエンナーレで展示する。756
1998 ビル・ヴィオラによる大規模ヴィデオ・プロジェクションの展覧会が複数の美術館を巡回。プロジェクターでイメージを投影することが現代アートの一形式として普及する。764
コラム:アートのスペクタクル化
コラム:マクルーハン、キットラー、ニューメディア
2000-2015
2001 ニューヨーク近代美術館で開かれたアンドレ―アス・グルスキーのキャリア半ばの展覧会が、絵画的写真――しばしばデジタル的手段で成し遂げられる――の新たな支配を合図する。773
2003 ヴェネツィア・ビエンナーレが「ユートピア・ステーション」、「緊急性のゾーン」といった展示を行い、近年のアート政策やキュレーション行為の大部分が情報的・言説的な本性を持つようになっていることを例示する。778
2007a シテ・ド・ラ・ミュージックの大回顧展によって、パリはアメリカ人アーティスト、クリスチャン・マークレイがアヴァンギャルド芸術の未来にとって重要であることを確認する。フランス外務省はソフィ・カルをヴェネツィア・ビエンナーレの自国代表に選出することで、同じ未来に対してフランスが独自に信頼を置いていることを明らかにする。他方ブルックリン音楽アカデミーが南アフリカ人ウィリアム・ケントリッジにオペラ『魔笛』の舞台装置のデザインを委嘱する。784
コラム:ブライアン・オドーハティと「ホワイトキューブ」
2007b 「アンモニュメンタル――21世紀のオブジェクト」展がニューヨークのニュー・ミュージアムで開催される。この展覧会は若い世代の彫刻家のうちに新たに芽生えたアッサンブラージュや集積への注目をしるしづける。790
2007c デイミアン・ハーストが、頭蓋骨のプラチナ型取りに1400万ポンドをかけてダイヤモンドをちりばめた『神の愛のために』を展示し、5000万ポンドで売却するといったように、あからさまにメディアのお祭り騒ぎや市場投資という構えを取ったアートも存在する。798
2009a タニヤ・ブルグエラがマルチメディア会議「私たちのリテラルな速度」で『包括的資本主義』を呈示する。この作品のオーディエンスであるアートワールドが、共通の信頼や思想に基づく絆、ネットワークを介して結びついていると想定されていることを、まさしくそうした絆を侵犯しつつ視覚的に示してみせるパフォーマンスである。804
2009b ユータ・クターがニューヨークのリーナ・スポーリングス・ギャラリーで「ラックス・インテリア」展を開催。ペインティングが持つ意味の中核に、パフォーマンスとインスタレーションを導入する。ネットワークはこの上なく伝統的な美的媒体――ペインティング――にさえインパクトを及ぼし、欧米のアーティストたちのあいだに広く普及している。810
2009c ハルーン・ファロッキがケルンのルートヴィヒ・ミュージアムとロンドンのレイヴン・ロウで戦争やヴィジョンをめぐる一連の作品を展示し、ヴィデオ・ゲームなどニューメディア・エンターテインメントの大衆的な諸形式と近代戦争の挙動との間に関連性があることを例証する。818
2010a アイ・ウェイウェイの大型インスタレーション『ヒマワリの種』がロンドン、テイト・モダンのタービン・ホールでオープンする。中国人アーティストたちが中国の急速な近代化と経済発展に応答して行う仕事は、同国の豊富な労働市場を主題として取り上げるとともに、それ自体が大量の雇用を発生させる一個のプロジェクトへと姿を変えていく。824
2010b フロリダ州ノース・マイアミ現代美術館で行われた大規模な回顧展に際し、フランスのアーティスト、クレール・フォンテーヌが「操業」を行う。生身のアシスタント2名を用いているので、この操業はそれ自体が明示的に分業となっており、同展はアートにおける主体性の新たなかたちとして、アヴァターが浮上してきたことをしるしづける。830
2015 テイト・モダン、ニューヨーク近代美術館、メトロポリタン美術館がさらなる拡張を計画するとともに、ホイットニー美術館が新しい建物でオープンし、パフォーマンスとダンスを含む金現代アートの展示空間が国際的に拡大した時代を締めくくる。836
座談会2 コンテンポラリーアートの窮状 842
用語集 857
参考文献 866
図版クレジット 874
索引 881
(つづき)
1960-1969
1960a 批評家ピエール・レスタニがパリで多様なアーティストを集めてヌーヴォー・レアリスムを組織し、コラージュ、れでぅメイド、モノクロームのパラダイムを定義しなおす。504
コラム:ネオ・アヴァンギャルド
1960b クレメント・グリーンバーグが「モダニズムの絵画」を発表する。彼の批評は方向性を改め、新しい装いをまとって60年代の様々な論争の形姿を決定する。
コラム:リオ・スタインバーグとフラットヘッド会画面
1960c ロイ・リクテンスタインとアンディ・ウォーホールが漫画と広告のイメージを絵画に使い始める。ジェイムズ・ローゼンクイスト、エド・ルーシェイらがそれに続き、アメリカン・ポップが生まれる。515
1961 12月、クレス・オルデンバーグがニューヨークのイーストヴィレッジに『ザ・ストア』を開く。これは「エンヴァイロメント」であり、周辺の安物を売る店の構えを真似ていて、置いてあるアイテムはすべて売り物だった。この冬と翌年の春、『ザ・ストア』を場とするオルデンバーグの〈光線銃シアター〉が10回にわたって異なるさまざまな「ハプニング」を上演する。520
1962a 西ドイツ、ヴィースバーデンにて、ジョージ・マチューナスが一連の国際イヴェントの第1回を組織し、フルクサス運動の結成をしるしづける。526
1962b ヴィーンでギュンター・ブルス、オットー・ミュール、ヘアマン・ニッチェらアーティストの一団が結集してヴィーン行為主義を結成する。534
1962c カミラ・グレイの『偉大な実験――ロシア芸術 1863-1922』の出版に刺激され、ヴラジミル・タトリンやアレクサンドル・ロトチェンコらの構成主義原理に対する関心が西側で息を吹き返し、ダン・フレイヴィン、カール・アンドレ、ソル・ルウィットら若手アーティストたちにより、さまざまに異なる方法で練り上げられる。540
コラム:『アートフォーラム』
1962d クレメント・グリーンバーグは初期ポップ・アートの抽象的側面を認めた最初の人物であり、この側面はポップ・アートの先導的唱道者や彼らのあとに従った者たちの作品に繰り返し特色として現れる。545
1963 ゲオルク・バゼリッツが、画家オイゲン・シェーネベックとともにふたつのマニフェストを発表したのち、ベルリンで『台無しになった大いなる夜』を展示する。551
1964a 7月20日、シュタウフェンベルクによるヒトラー暗殺未遂事件から20年目のこの日、ヨーゼフ・ボイスは架空の自伝を刊行する。また西ドイツのアーヘンでは、「新芸術のフェスティヴァル」において観衆による暴力を引き起こす。556
1964b アンディ・ウォーホールの『13人の最重要指名手配者』がニューヨーク万博の同州パヴィリオンのファサードに、ごく短いあいだ設置される。562
1965 ドナルド・ジャッドが「特定的な物体」を発表する。ミニマリズムがその主要な実践を担ったジャッドとロバート・モリスの手で理論化される。568
コラム:モーリス・メロル・ポンティ
1966a マルセル・デュシャンがフィラデルフィア美術館のインスタレーション『与えられたとせよ』を完成させる。没後にこの新作が公開されたことで、若手アーティストたちに対して強まりつつあった彼の影響力は絶頂に達する。572
1966b ニューヨークで「エクセントリック・アブストラクション」展が開催する。ルイーズ・ブルジョワ、エヴァ・ヘッセ、草間彌生らの作品はミニマリズムの彫刻言語に対する表現性に富んだオルタナティヴを指し示す。576
1967a ロバート・スミッソンが「ニュージャージー州パセーイクのモニュメント巡り」を発表。1960年代末のアート実践にとって生成的なコンセプトとして「エントロピー」をマークする。581
1967b イタリアの批評家ジェルマーノ・チェーラントが最初のアルテ・ポーヴェラ展を開催。585
1967c フランスのグループBMTPが最初の発表活動に際して公開絵画制作を行い、めいめいが特定の布置を選び、それを複数のキャンヴァスにそっくりそのまま繰り返して描く。独自のコンセプチュアリズム絵画である。戦後フランスで「公式」とされていたタイプの抽象に対しては以前から攻撃が仕掛けられていたが、その最新のもの。591
1968a 1960年代の最も先進的なヨーロッパとアメリカの美術にコミットしていた二つの主要な美術館――アイントホーフェンのファン・アッペ市立美術館とメンヒェングラートバッハのアプタイベルク美術館――がベアント&ヒラ・ベッヒャー夫妻の作品を展示し、ふたりをコンセプチュアル・アートと写真に対する関心の最前面に位置づける。597
1868b コンセプチュアル・アートがソル・ルウィット、ダン・グレアム、ローレンス・ウィーナーの出版物の中に発現し、セス・シーゲローブによって最初の展覧会が組織される。
コラム:アーティスト主宰の雑誌
コラム:脱スキル化
1969 ベルリンとロンドンでの「態度がかたちになるとき」展がポストミニマリズムの諸展開を概観する一方、ニューヨークでの「反イリュージョン――手続き/素材」展はプロセス・アートに焦点を合わせる。プロセス・アートの主要3側面をリチャード・セラ、ロバート・モリス、エヴァ・ヘッセが練り上げる。610
1970-1979
1970 マイケル・アッシャーが『ポモーナ大学プロジェクト』を設置。サイト-スペシフィックな作品が、モダニズムの彫刻とコンセプチュアル・アートのあいだにひとつのロジックの領野を開く。616
1971 ニューヨークのグッゲンハイム美術館がハンス・ハーケの展覧会を中止し、第6回グッゲンハイム国際展へのダニエル・ビュレンヌの参加を弾圧する。制度批判の実践がミニマリズム世代の抵抗に直面する。621
コラム:ミシェル・フーコー
1972a マルセル・ブロータースが西ドイツのデュッセルドルフに「近代美術館、鷲部門、図像セクション」を設置する。625
1972b 国際展ドクメンタ5が西ドイツのカッセルで開催され、ヨーロッパにおけるコンセプチュアル・アートの制度的受容をしるしづける。630
1972c 『ラスヴェガスから学ぶ』が刊行される。ラスヴェガスだけでなくポップ・アートからもインスピレーションを得た建築家ロバート・ヴェンチューリとデニース・スコット・ブラウンが、「あひる」つまり彫刻的形態としての建築を避けて「装飾された小屋」を擁護する。そこではポップな記号が前景化されて、ポストモダンのデザイン様式の語彙が準備された。636
1973 キッチン・センター・フォー・ヴィデオ・ミュージック・アンド・ダンスがニューヨークにスペースをオープンする。ヴィデオ・アートが視覚アートとパフォーマンス・アート、テレビと映画のあいだで、制度の中に一個の居場所を要求する。644
1974 クリス・バーデンがフォルクスワーゲン・ビートルに釘づけにされる『刺し貫かれて』において、米国におけるパフォーマンス・アートは肉体の現前という点でひとつの極限に達し、同じ傾向に従う多くのアーティストたちはこのような実践を断念したり、穏健化したり、あるいは別の形に転じさせたりする。649
1975a 映画作家のローラ・マルヴィが画期的試論「視覚的快楽とナラティヴ映画」を発表し、ジュディ・シカゴやメアリー・ケリーらフェミニズム・アーティストが女性表現についてさまざまに異なる立場を発展させる。654
コラム:理論誌
1975b イリヤ・カバコフがアルバム・シリーズ『十の人物』を完成させる。モスクワ・コンセプチュアリズムの重要なモニュメントである。660
1976 ニューヨークで、P.S.1がメトロポリタン美術館における「ツタンカーメン」展と時を同じくして開設される。制度=機関的構造の麺でアートワールドに生じていた重大なシフトが、オルタナティヴ・スペースとブロックバスター展覧会の両方によって記銘される。668
1977a 「ピクチャーズ」展が開催され、若手アーティストたちをひとつのグループとして同定する。アプロプリエイションやオリジナリティ批判といった彼らの戦略は、アートにおける「ポストモダニズム」の概念を提出する。672
1977b ハーモニーハモンドが新たに創刊された雑誌『ヘレシーズ』でフェミニズムの抽象を弁護する。676