かなり以前に(No.2102)ご紹介した「クレー展」ですが、いまさらながら、新たに分かった巡回先をご紹介します。
☆パウル・クレー展 創造をめぐる星座
愛知県美術館:2025年1月18日~3月16日
兵庫県立美術館:2025年3月29~5月25日
さらに巡回がありますかね?
関東への巡回が必ずあるはずですが、兵庫のあと、すなわち、2025年度でしょうか。
ふと、「ツァイト・フォト・サロン」の現在の活動を知ることができました。
国立(くにたち)でギャラリー活動を継続しつつ、アーカイブ・プロジェクトも進めていると。
以前から掲載されていたのかもしれませんが、過去の企画の案内の葉書が掲載されているのも、見ていて楽しいものです。
例えば、通い始めた1990年のモーリス・タバール展の葉書など、かなり懐かしく感じます。
https://www.zeit-foto.com/dm/1990
他方、オンラインショップでは、『写真のエコール・ド・パリ 1910-1945 』カタログ、がまだ販売されていたりして、驚きです。
目黒区美術館以外に7か所も巡回していたということも知らなかったので、驚きです。
1991.4.13 - 5.26 目黒区美術館
1991.6.22 - 7.28 三重県立美術館
1991.8.31 - 9.29 北海道立近代美術館
1991.10.9 - 12.9 河口湖美術館
1992.2.15 - 3.29 静岡県立美術館
1992.4.4 - 5.10 ひろしま美術館
1992.7.9 - 8.9 米子市美術館
1992.8.21 - 9.2 近鉄アート館
このサイト、もっとじっくりと見てみたいと思います。
以前から、
・美術館での展覧会企画の「展覧会カタログ」(展覧会図録)は、ごく一部の例外を除いて、公立図書館で所蔵されない。
・最近は、展覧会カタログに該当する書籍が、一般の流通に乗る書籍として刊行され、書店の店頭に並ぶことが多くなり、それが公立図書館でも所蔵されるケースが増えている。
というようなことを、機会があるごとに、何回も書いてきました。
それゆえ、
・公立図書館に所蔵されず、不便である、困ったものである。
・できる限り、一般の書籍として刊行していただき、公立図書館に所蔵されるようにしていただきたい。
という論調で、取り上げていたわけです。
ところが、よく考えてみますと、本当に、従来の「展覧会カタログ」(一般の書籍でないもの)を公立図書館で所蔵することができないのか、というと、そうでもないように思えてきました。
例えば、上記のとおり、「ごく一部の例外を除いて」ということなのですが、そのうちで最も「大きな例外」というのは、公立の美術館がある場合、その同じ地方公共団体の図書館には、その美術館の展覧会カタログが所蔵されている場合がある、ということです。例えば、東京都立の美術館(や博物館)は多くありますが、その展覧会カタログが、東京都立の図書館に所蔵されていることがある、ということです。
そういう例があるということは、所蔵自体は可能だということです。可能ならば、もっと積極的に所蔵していただきたい。今のままでは、展覧会カタログだというだけで、所蔵されている場所(例えば、各美術館の図書室)が都市部に集中していて行きにくい、しかも、貸出は全く不可能、という状態に耐えなくてはならないままです。逆に言えば、公立図書館に所蔵可能なのに、実際にはほとんど所蔵されていないということは、そこに何か理由・原因があるはずです。その理由・原因を除去できれば、所蔵も進むのではないかということです。たとえ時間はかかるとしても、また、非常に困難であっても、除去が完全に不可能な理由や原因など存在しないのではないでしょうか?
ご存じのとおり、展覧会カタログは往々にして、非常に有用な情報、そして多くの作品図版(しかもカラー)が収録されている、貴重な資料です。一般の書籍では、決してカバーしきれません。したがって、展覧会カタログを所蔵しない手はありません。
今後は、ぜひ、展覧会カタログを積極的に所蔵して行っていただきたい、そう強く心から願っております。
しばらくしたら、また所蔵状況を確認しつつ、この話題を取りあげてみたいと思います。
デ・キリコは、1920年代の古典回帰を、アンドレ・ブルトンらから否定的に評価されたことが気に入らなかったのでしょう、その後も、1910年代のモティーフをそのまま描いた「形而上絵画」を何度となく制作し続けました。その際に、アンドレ・プルトンなどの自分を否定的に評価した人々を愚弄するためか、制作年として意図的に1910年代の年号(嘘の制作年)を記載したりしています。「どうせ、見分けがつかないだろう?」と馬鹿にするつもりだったのかもしれません。
しかし、このことは、かえって、1910年代のデ・キリコ作品にさらに注目を集めるという結果を招いたのではないかと思います。ひいては1910年代の作品の価値をより一層高めてしまったといえるのではないでしょうか。皮肉にも、デ・キリコが望んでいたこと、すなわち、形而上絵画以外の自分の作品の価値を相対的に高めるということとは、逆の結果が生じてしまったのではないかと思います。
ただ、少なくとも明らかなことは、これらのデ・キリコ自身の手になる「模倣的作品」は、「贋作」(偽作)ではなく、「レプリカ」(模写・模造)でもなく、本人の描いた「真作」(本物)です。違いは、1910年代に描いた作品か、その後に描いた作品かということです。「オリジナル」という意味では1910年代の作品が勝るのかもしれませんが、自分のアイデアを自分で再利用しているだけですから、「盗用」とも言えません。
ということで、今まで、デ・キリコの1910年代の作品にかなりこだわった内容を書いてきたにもかかわらず、また、デ・キリコの1910年代の作品の価値を低く考えるつもりも全くありませんが、現時点で思うことは、逆に、デ・キリコの1910年代の作品のみを妄信する必要はないのではないかということです。今までは、1920年代以降の形而上作品は、価値が低く見られてきた、あからさまではないにしても、それこそ「レプリカ」的扱いを受けていた場合もあったと思います。しかし、「本物」ですから、むしろ、1910年代の形而上絵画とのちの形而上絵画を比較し、どこをどう変えているのか、その意味はあるのかないのかなど、1920年代以降の形而上作品にも正面から対峙すればいいのだと思います。「比較」など、作者が生きていたら叱られそうでできないかもしれませんが、現在であれば、自由にできます。
また、古典的作風の作品は古典的作風の作品として変に低く評価するようなことをせずに、古典回帰の意味を掘り下げればいいわけです。こうすることで、おそらくデ・キリコご本人も望んでいたであろう、「形而上絵画」の客観化、デ・キリコ作品の重要性の「平均化」も図れるのではないでしょうか?
No.1907ですでに一部書いてあることですが、ほぼ4年たっても、状況が変わらないため、新しい情報、側面、視点などを含めて再説です。
以前、次の本を見たことがありました。
新しいミュジオロジーを探る 西武美術館からセゾン美術館へ
編集:セゾン美術館
出版社:セゾン美術館、(発売)リブロポート
刊行年:1989年
その中で、西武美術館・セゾン美術館のアートワーク、グラフィックワーク、デザインワークについて(田中一光、松永真)、まとめて紹介してあるページがあったと記憶しています。
ここで、アートワーク、グラフィックワーク、デザインワークとは、展覧会企画のポスター、チラシ、入場チケット、展覧会カタログ、会場設計・レイアウト、会場に掲示される各種宣伝媒体(入口や壁などに配置されるパネル、建物外壁の垂れ幕など)、それ以外の広告(雑誌広告、新聞広告、街頭広告、(通常は存在しないでしょうが)TV広告)などのことです。この書籍の刊行時には含まれていなかったかもしれませんが、最近では展覧会企画に合わせて制作された限定オリジナルグッズや公式サイトなども含まれるでしょう。また、TV広告などは現在でも考えられないと思いますが、その代わりに、YouTube用や公式サイトに掲載するための映像「広告」は出現していますね。
さて、申し上げたいのは、かつての西武美術館・セゾン美術館のように、こういったアートワーク等をデザインの面で統一的に打ち出していくべきだということではありません。それは、訴求力という意味では、美術館にとって極めて望ましいことですが(すでに実施している美術館もあるかと思いますが)、同時に、費用も含めて、能力的に極めて難しく、提案としては成り立たないと考えるからです。
そうではなく、ここで申し上げたいのは、これらの過去のアートワークを、なぜ、世の中に提示しないのか、ということです。
とはいえ、セゾン美術館のように、書籍として出版せよ、ということではありません。
そうではなく、この書籍が刊行された1989年には身近になかった媒体だが、今となっては、誰もが簡単に発信に利用できて、しかも世界中からアクセスできる、そんな媒体であるインターネットが、すぐそばにあるではありませんか。
すでに、開催中の展覧会企画や過去の展覧会企画について、チラシや出品作品リストをウエブ上に掲載している美術館もあります。逆に、そんなものすら掲載していない美術館は、未だに多く存在しますが、いまや信じられない思いです、何をやっているんだと非難してもいいでしょう。
しかし、ここでは、チラシや出品作品リストだけではなく、それ以外のアートワークをなぜ同様に残しておこうとしないのだろうか、という問題意識です。
ポスター、チケットその他のアートワークにしても、丹精込めて作り上げたものではないのでしょうか? そうだとしてら、せっかくの財産というか、宝物をみんなと共有することで、残しておこう、という発想はないのでしょうか? 展覧会会期が終わったら、もう意味、存在意義のないものになってしまうのでしょうか? こういういい方はしたくありませんが、それに使ったお金が税金だとしたら、(永遠の)公開により還元する義務があるのではないでしょうか?
多少の手間と費用は掛かりますが、自分の美術館の企画であれば、公開は(おそらく)簡単です。逆にその美術館が公開してくれなければ、一般の人間は、二度と見ることができなくなります。その美術館にしかできないことなのです。もちろん、どこかの機関がまとめて公開してくれれば、受ける側としては、それに越したことはないのですが、そうなると、量的にほぼ不可能でしょう。
また、ニューヨーク近代美術館のように展覧会カタログさえ全部掲載せよなどとは申しません。ですから、実現可能性はかなり高い、いやほぼ障害はないのではないかと思います。あとは実行するのみです。
ぜひとも、アートワークの公開を各美術館において進めていただけばと思います。まずは、現在の企画から、そして、未来へ過去へ。そのような公開が、50年後100年後にどれだけ価値のあるものになるか、想像するだけで武者震いしませんか? やってみようという気持ちになりませんか?