次の展覧会が開催予定です。
ヒルマ・アフ・クリント展
2025年3月4日(火)~6月15日(日)
東京国立近代美術館
主催 東京国立近代美術館、日本経済新聞社、NHK
協賛 DNP大日本印刷
特別協力 ヒルマ・アフ・クリント財団
後援 スウェーデン大使館
https://www.momat.go.jp/exhibitions/561
https://www.momat.go.jp/wp-content/uploads/2024/11/MOMAT-HaK-pressrelease-20241112.pdf
https://art.nikkei.com/hilmaafklint/
ヒルマ・アフ・クリント(Hilma af Klint, 1862-1944)は、スウェーデン出身の女性画家で、カンディンスキーに先んじて1900年代には抽象絵画を書いていたとされます。その画家のアジア初の大回顧展です。約140点出品と大型の企画です。非常に期待できます。
日本では、ほとんど紹介されたことがなく、和文の資料もほとんどない、と思います。
やっと1980年代になって徐々に紹介されるようになり、21世紀に入って広く知られるようになってきたということです。ご本人が、没後20年間は公表を控えるようにと言い残したという話もあり、そのことも、再評価が遅れた理由の1つかもしれません。
今回のウエブサイトに掲載されている図版などを見ると、カンディンスキーやモンドリアンとは違う系統の抽象絵画であることがわかります。カンディンスキーが表現主義から、モンドリアンがキュビスムから、それぞれスタートして抽象絵画へと深化させたこととは異なり、ヒルマ・アフ・クリントは、模様や文様、自然物(植物(葉、実)や貝殻など)を題材(抽象化へのスタート)にしているようです。
ここで、ポイントとなるのは、ヒルマ・アフ・クリントの意思というか、または、思想ですね。というのも、模様や文様、自然物などは、以前からいくらでも描かれているわけで、その中には形態などが単純化されて極めて抽象的なものもあります。しかし、それは抽象絵画とは言い難い。それでは、ヒルマ・アフ・クリントの作品とそれらの過去の作品を分かつものは何かというと、抽象絵画を意図的に目指しているのかどうかということに尽きるのではないでしょうか。
この辺りの彼女の思想も含めて、今後の情報にも注目していきたいと思います。今回の企画に合わせて刊行される(はず)展覧会カタログも、今後の研究の基礎に位置付けられる貴重な資料となるでしょう。
「アジア初」ということは、日本国内で、東京以外の関西などへの巡回は無理でしょうかね。情報が出るのを待ちたいと思います。
最後に、今回のヒルマ・アフ・クリントに限らず、スウェーデンの20世紀前半の美術に関する情報は日本語ではほぼ存在しないと思います。これを機会に、ある程度網羅的に情報が出てくれば、と期待します。やはり、世の中に情報は不足しているんです。
逆に、日本の20世紀前半の美術に関する外国語による情報発信ができているのかについても、大いに懸念します。自分でも何かできることがないか、引き続き探していきたいと思います。
次の本が刊行されているようです。
家族写真の歴史民俗学
川村 邦光
価格 ¥4,180(本体¥3,800)
ミネルヴァ書房(2024/11発売)
A5・376ページ
以前にも同じことを書いたかもしれませんが、写真史の対象は、すでに以前よりもかなり拡大してきており、今後もさらに拡大していくでしょう。
拡大の対象としては、写真家とは呼べない人たちによる写真作品、ということになるでしょう。まずは、画家、ジャーナリストなど著名な人々による写真、というカテゴリーが挙げられます。さらに、全く著名性のない、市井の人々による日常的な写真作品が、すでに写真史の対象となってきており、その例が、今回ご紹介する本です。個人的には、遅ればせながらとうとう出たな、という感じを持っており、写真史研究の「裾野の広がり」を示していると考えています。
ミネルヴァ書房という、写真史とはあまりなじみのない出版社からの刊行という点も、非常に興味深いと思います。
目次は以下のとおりです。
序 章 鶴見良行の家族写真論から
1 山田太一『岸辺のアルバム』の家族写真
2 家庭写真の歴史主義の時代と芸術主義の時代
3 家族写真と遺影
4 東日本大震災のなかの家族写真
第Ⅰ部 家族写真の来歴と展開
第一章 欧米の家族写真
1 家族肖像画から家族写真へ
2 家族写真の構図とスタイル
3 聖母子像と聖家族像の近代
コラム1 家族写真にみる故人物語――夏目漱石
第二章 日本の家族写真の来歴
1 日本人と写真の出会い
2 日本最初の夫婦写真
3 日本における初期の家族写真
4 幕末・維新期の家族写真
コラム2 家族写真にみる故人物語――与謝野晶子
第三章 日本の家族写真の展開
1 近代日本の定型的な家族写真スタイル
2 権威的な威信財と家族写真
3 戦争期の写真時代
コラム3 家族写真にみる故人物語――斎藤茂吉(1)
第四章 家族写真の変容
1 日本における親子写真
2 子供を中心にした写真へ
コラム4 家族写真にみる故人物語――斎藤茂吉(2)
第五章 子供写真と家族写真の存続
1 子供写真のスタイル
2 アマチュア・カメラマンのスナップ写真
3 フォーマル/インフォーマルな写真体験
コラム5 家族写真にみる故人物語――柳田國男(1)
第Ⅱ部 家族写真の写す社会と個人
第六章 天皇の家族写真
1 翻身する天皇とモーリス - スズキの家族写真論
2 戦中と敗戦後の天皇家族写真
3 天皇家族写真の現在と行方
4 原爆と家族写真
コラム6 家族写真にみる故人物語――柳田國男(2)
第七章 アマチュア写真家のスタイル――塩谷定好の抒情派子供写真
1 山陰のアマチュア写真家・塩谷定好
2 塩谷の写真技法と海辺の光景
3 塩谷の子供写真
コラム7 家族写真にみる故人物語――塚本博利
第八章 ドキュメンタリー家族写真――社会生活派の影山光洋
1 社会派カメラマン・影山光洋
2 敗戦前後の影山家の日々と家族写真
3 家族物語と国家物語、そして亡児の故人史
4 影山の家族写真スタイル、故人物語から故人史の編集へ
コラム8 東アジアの家族写真――台湾
第九章 家族写真のアート化と変貌
1 深瀬昌久の反家族写真
2 福島菊次郎のドキュメタリー反権力家族写真
コラム9 東アジアの家族写真――韓国(1)
第十章 家族写真スタイルの現在と諸相――多様化/複数化
1 家族の危機と家族の絆の家族写真
2 家族の絆の現状
3 年賀状の家族写真
4 展示される家族写真
5 発掘される家族写真――過去/未来への記憶の共同体を構築する
コラム10 東アジアの家族写真――韓国(2)
終 章 故人史を妄想する
1 懐旧的/予期的歴史化による物語創出
2 未完の故人史へ
参考文献
あとがき
人名索引
事項索引
===========
目次は以上です。
目次だけでワクワクします。この本も実物を早く見たいものです。
なお、著者の川村邦光というかたは、大阪大学名誉教授で、ご専門は写真史や美術ではなく、むしろ、宗教学、文化(人類)学、民俗学などのようです。
実に物騒なタイトルですが、最近、飯沢耕太郎さんの次の本が刊行されました。
写真は死んだのか? いまこそ写真の純粋な驚きを語ろう―写真史、SNS、生成AI、無意識、心霊写真
飯沢 耕太郎/大山 顕【著】
価格 ¥2,750(本体¥2,500)
梓出版社(2024/11発売)
46判/220p
この本はいったいどこにポイントがあるのでしょうか?
以下の目次を見ると、非常に対象が広く、よくわからなくなりそうです。
は し が き
1 写真の本質とは何か? 写真史から考えるⅠ
カメラ・オブスクラの本質はモンタージュにあった
影の発見はレンズとライティングによってもたらされた
写真が誕生する以前の写真的視覚
ヘリオグラフィに見る写真の起源を辿ることの難しさ
ダゲレオタイプの果てにあるAIによる顔認証
写真を成立させるのは線ではなく面である
潜像の発見 写真は見えないものを、見えるようにした
現像のメタファとしての「中つ国」
現代におけるシャッターの意味の変容
カロタイプの発明によってイメージは場所から解放された
ガラス素材の導入と湿板写真
ゼラチン乾板と笑顔の発見
コダックによる現像のバックヤード化とフィルムによる決定的瞬間の神話の誕生
ライカは映画フィルムを転用して、プリントサイズは絵葉書を基準にした
フィルムによる連続撮影と写真のシークエンス
カメラメーカーではなく、コンピュータメーカーがレンズ開発競争を無効にした
カルティエ=ブレッソンの写真集Images a la sauvette は、「決定的瞬間」ではなく「かすめ取る」イメージ
写真と映画に含まれるブレの意味
2 写真の本質とは何か? 写真史から考えるⅡ
カラー写真の歴史
写真家たちによるカラー写真の受容
現代において写真に色をつける意味とは?
色に含まれる罠
3 写真は「得も言われぬもの」をすくいとる 無意識と心霊写真
無意識の可能性と、さまざまな回路
撮れちゃった写真と、写真に入り込むバグ
ウィリアム・マムラーと心霊写真の時代
心霊写真の時代に見る写真と人々の欲望
日本における心霊写真のポストモダン
生成AIは現代の念写である
場所に根ざす心霊写真と場所に根ざさない生成AI
4 写真を語ることは難しいのか?
写真を語ることと共同性
写真を直接語るのではなく、迂回路をつくる
ポートフォリオを作る
写真をどう並べ、どう収めるのか
作品の選考において審査員の意見は八割がた一致する
5 SNS時代の写真の役割は、記録からおしゃべりになった
分水嶺は一九九五年 カメラを取り巻く環境の整備
『デジグラフィ』執筆の動機とは
蓄積性の問題 膨大なデータ量の管理がコストになる時代
保存の本質はメンテナンス
写真はAIがサジェストする時代
写真によるおしゃべりは新しい神話や物語を生むか?
ウェブサイトの時代とSNSの時代
SNSで「いいね」をもらう写真には既視感がある
ユースフル・フォトグラフィは、新しい認識や世界像を提示する
写真の消去性 現代の写真は消去されなかったものの残り
写真表現の物質性と、透明な存在になったスマートフォン
写真を見せる、交換する、コレクションする 現代の欲望はSNSにつながる
猫写真に見るSNS以降の写真の特徴
食べ物の写真と建築写真は、「既視感」と「いいね」で構成される
撮っている自分は何者なのか? 近代的自我への疑問
セルフィー「ここにいる自分」に価値がある
盛りの思想 顔は自分のものでしょ
6 生成AIは写真家の夢を実現するのか?
ボリス・エルダグセンの「Pseudomnesia: The Electrician」
なぜフォトリアルなのか? その理由が求められる時代
写真コンテストよりも、アーティスト・イン・レジデンスをやるべき
生成AIはInstagram によって準備されていた
写真を忠実に学習している生成AIは、既視感からは逃れられない
AIが生成する画像はコラージュに類似するものか?
生成AIは出力主義 写真家は入力行為のために存在する
見えないものを見ることが写真家の夢だった 生成AIはまだまだ物足りない
あ と が き
実物を早く見てみたいところです。
なお、共著者の大山顕(おおやまけん)さんとは、1972年生まれの新進の(? もう50代)評論家、写真家です。
たまたま、次の記事を発見しました。
https://artexhibition.jp/topics/news/20241108-AEJ2491894/
美術展ナビ
東京ステーションギャラリーが2025年の展覧会スケジュールを発表
独創的な展示内容で魅せる駅ナカ美術館!
その中に、「藤田嗣治 絵画と写真(2025年7月5日~8月31日)」という企画がありました。
全く知りませんでしたが、藤田嗣治は、数千枚の写真作品を残しているそうです。その写真作品を通じて、彼の絵画制作を再考するという企画とのことです。20世紀前半という観点からも、非常に興味深い企画です。
また、藤田を撮影した写真作品も紹介されるそうです。このページでは、ドラ・カルムス(Dora Philippine Kallmus (1881-1963)、Madame D'Ora)の1920年代撮影と思われる作品が紹介されています(上に図版を引用)。他にも、なるほどと思うような写真家による作品も含まれているかもしれません。
今後、さらにくわしい情報が公表されることを楽しみに待っていましょう。
今のところ、特に気なるのは次の2点です。
1.巡回はあるでしょうか? 少なくとも、関西にはお願いしたいところです。
2.展覧会カタログは一般の出版社から刊行するでしょうか? 最近そういうケースが増えていますが、今回もできればそうしていただきたい。一般の書店に並ぶかどうか、さらに、公立図書館に所蔵されるかどうか、がこれにかかっています。
最後に、本企画ご担当の学芸員は、若山満大さんかもしれません。
次の本を読んでいます。もう少しで読み終わりますが、まだ途中です。
シュルレアリスム絵画と日本 イメージの受容と創造
速水豊
NHKブックス1135
2009年
刊行が2009年ですから、すでに刊行から15年が過ぎてしまいましたが、今さらながら読んでいます。刊行された当時に入手していたのに、今までなぜほっておいたのか、質問しないでください。
1920年代末から1930年代半ばにかけての、「初期のシュルレアリスム」とも言える(ダリの影響がまだ大きくない時期)、古賀春江、福沢一郎、三岸好太郎、飯田操朗の4名を中心に、それぞれの作品が海外のどの作品をどのように参照して制作されたのかを詳細に後追いしつつ、当時の作家本人による文章も敷衍して、巷でよく言われているような説をうのみにせずに、丁寧に、彼らのシュルレアリスムとは何だったのかを丁寧に解き明かしています。素晴らしいとしか言いようがありません。
例えば、古賀春江については、「シュルレアリスムではなく、モダニズム絵画に過ぎない」という説がしばしば言われるように思いますが、これが正しいのかどうか?(この本は、そういう論の立て方ではないのですが) 他方、福沢一郎は、その滞欧作品やその後の後進育成的な活動から、日本戦前期のシュルレアリスムの中心と言われるようなこともありますが、本当にそうなのか。また、三岸好太郎の末期の変転極まりない作品群は、いったい何を意味しているか、なお、「蝶や貝(殻)がもともとシュルレアリスム的なものであった」という説についても言及があります。
ただ、不満も残ります。例えば、
・古賀春江の死後、その作品や思想は、どう受け継がれていったのか、または、受け継がれなかったのか?
・東郷青児、阿部金剛についても、シュルレアリスム後、他の方向へ向かったという理由も含めて、もう少し探っていただきたかった。
・福沢一郎のその後の活動における、シュルレアリスムの意味は何だったのか? もう少し先まで、具体的に作品を追っていただきたかった。
これらは、もうこの本には入りきらない内容ではあろうとは思いますが。
さらに、他の文献を見て行かねばなりません。
なお、最後に、この本には「ピエール・ロワ」の名前が何度も登場しました。今後、日本でのまとまった作品集、評論、展覧会企画が強く期待されます。
よろしくおねがいいたします。